今回のゲスト達のプロフィール

米内光政(よない みつまさ)

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1880年(明治13年)3月2日 ~ 1948年(昭和23年)4月20日、日本の旧海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。第23代連合艦隊司令長官。第39-41、49-52代海軍大臣。第37代内閣総理大臣。
米内は1937(昭和12)年に海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対した。また、戦後の極東国際軍事裁判では証人として出廷し、“当初から、この戦争は成算のなきものと感じて、反対であった”、“天皇は、開戦に個人的には強く反対していたが、開戦が内閣の一致した結論であった為、やむなく開戦決定を承認した”と、天皇の立場を擁護する発言に終始したが、果たしてその真相は如何に・・?


嶋田繁太郎(しまだ しげたろう)

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1883年(明治16年)9月24日 - 1976年(昭和51年)6月7日)は日本の海軍軍人、政治家。
海兵32期。最終階級は海軍大将。第47代海軍大臣。第17代軍令部総長。A級戦犯として終身刑。東京府に旧幕臣で神官の嶋田命周の長男として生まれる。実家が神官の家系であることから敬神家であり、毎朝の神社参拝を日課とし、日々の職務を規則正しくこなす、他の軍人に見られるような我の強さが無い、酒も飲まない、政財界との付き合いも一切無い、といった質素で非常に生真面目な人柄だったとも言われるが、その真像は如何に・・・・・。


井上成美(いのうえ しげよし)

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1889年(明治22年)12月9日 - 1975年(昭和50年)12月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。海軍大将となった最後の軍人。
宮城県仙台市でブドウ園を経営する旧幕臣・井上嘉矩の十一男として生まれる。「成美」という名は「論語」顔淵篇の一節 「子曰く、君子は人の美を成す、人の悪を成さず、小人はこれに反す」に由来し、父からそんな人間になるようにと何度も教えられた成美はこの名を誇りとした。中学4年終了時の成績は「60人中1番、優科:数学、劣科:漢文、運動:不定、嗜好:音楽と細工」とある。第二中学校の同級生の回想では「井上君は恐ろしく頭が良く、数学と英語が得意だった」というが、真像はどんなもんでしょうか・・・・・・?


高木惣吉(たかぎ そうきち)

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1893年(明治26年)8月9日 ~ 1979年(昭和54年)7月27日、日本の旧海軍軍人で最終階級は海軍少将。
東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣の内閣副書記官長を務めた。高木は米内光政、井上成美の密命により終戦工作に従事。各方面と連携をとりながらの終戦への基盤づくりを行った功績は大きいとされるが、はたまた、真相は如何に・・・?