第二章

※本文中の敬称略

さて、山本五十六についてですが振り返って考えてみるに戦後から現在に至る迄、不思議なことに彼の思想についてはなんら語られたことはないと思われます。少なくとも私メは色々な本を見てきましたが山本の思想について語られたものにはお目にかかったことがないのです。
そういえば半藤一利や保坂正康や加藤陽子は勿論の事、阿川弘之や司馬遼太郎らも近現代史に関係する自らの著作に登場する人物の思想については殆ど触れていません。意識的に避けているのか、それとも思想について述べると何か都合の悪いことでもあるのでしょうか。それらの中には軍人もいれば官僚や政治家や学者や文化人・ジャーナリストもいるのですが、それとも彼らの著作の中の登場人物はその殆どが無思想の人物だったのでしょうか?当然のことながら、阿川や半藤の著作でも山本の思想についてはなんら述べられてはいないのですが、これはどうしたことなのでしょうか(含み笑い)。
彼らは山本や米内の思想には全く興味が無かったのでしょうか。それとも軍人は思想など持ってはいないと思っているのでしょうか。では山本の思想はなんでしょうか?これについては戦前・戦後を通じて初めて語られると思いますが、実のところ山本は元々自由平等主義者だったのです。そして共産主義が正に其れに当たるという間違った解釈をしていたのです。
これは米内光政の影響と思われます。米内は帝政ロシアの首都であるサンクトペテルブルグに駐在武官補佐官として二年間勤務したのを皮切りに、日本のシベリア出兵時にウラジオストックに一年間勤務しています。更にソ連の共産革命の実情を調査・分析するという理由でワルシャワやベルリンに二年半駐在しています。更に米内は事務所をワルシャワに置いていました。その費用は海軍の機密費から出ていたのですが、もちろんその資料や痕跡等は一切残っていません。因みに海軍のソ連関係の資料は全て終戦時に持ち出されています。これを実行したのは陸軍の下村定(陸軍大将、陸軍大臣、教育総監、戦後参議院議員)でした。実は米内と下村は昵懇で気脈を通じあった仲でした。彼は最後の陸軍大臣であり陸海軍の解体を行った人物でもあります。
この資料の持ち出しは“ある人物”の指示によるものであり、その指示とはソ連の関与の(スターリン絡みの)証拠を全て消すという指示でした。そして米内はといえば下村が資料を持ち出すのを見て見ぬふりをしていたのです。そしてその資料は下村からソ連の工作員に渡されています。これによって、その後陸海軍の解体を急がせました。本来ならば陸軍大臣の下村と海軍大臣の米内の二人で陸海軍の解体を行う筈なのに下村一人でこれを実行したのです。これ等により自動的に軍刑法も消滅することとなり、米内が軍刑法で裁かれる可能性は永遠になくなったわけです。下村一人に陸海軍の解体をさせて米内には危ない橋を一切渡らせなかったのはスターリンの指示と思われます。米内の存在は、なんといっても絶対バレてはいけない存在であり、だからこそのコードネーム“シャドー”だったのですから。尚、因みに下村定はコミンテルンです。
さて米内と山本の関係に話を戻しますが、米内は当然ながらロシア語に堪能であるのは言うまでもありませんが“頗る付き”のロシア贔屓でした。ロシアでの駐在期間が長くロシア通でもある米内のソ連社会の内情に関する話は山本にすればある程度真実味のある話として聞いていたのは間違いのないところだったと思われます。実際のところ山本は周りの人間たちに「共産主義は自由な思想で人々は全て平等であるので日本もそうあるべきだ」と言っていたのです。ソ連という共産主義社会を見たことがなく、つまり駐在したことがないのにもかかわらずです。つまるところ山本は共産主義の本質を理解していなかったのです。まあ軍人の限界というところでしょうか。
結論を言えば山本五十六は共産主義者ではないものの、共感者、つまり“共産主義シンパ”だったのです。山本五十六は親米だったなどという一部の俗説は真っ赤な嘘ということになります。共産主義シンパの海軍軍人が親米であるとは当時の国際情勢やワシントン軍縮会議・ロンドン軍縮会議以後の海軍軍人達の対米感情を鑑みても非常に考えにくいですからね。むしろアメリカやイギリスに対しては腹の中で甚だ面白くない感情を持っていても不思議ではありません。少なくとも山本が親米でないことだけは確かです。むしろ親ソ連だったのです。事実、対米戦を始めるに当たって山本は日本とアメリカの戦争は「太平洋の覇権をかけた戦い」になると認識していたのです。つまり、やる気満々でこの戦争を始めたということです。そして山本の回り、いや海軍内の将官達や強硬派の中堅幕僚である佐官達はその殆どがソレ行けドンドンだったのです。
日本はアメリカの仕掛けた罠に嵌められて止むを得ず立ち上がったなどの保守派の論客達の主張する“俗説”は全く事実ではないし、寧ろ笑止千万と私メは思っているのです。これについてはアメリカも日本もどっちもどっちなのですよ。尤も海軍内に吉田善伍(海軍大臣、海軍大将)や堀悌吉(軍務局長、海軍中将)がいた頃は山本も違ったのですが。はてさて山本は一体どうしたのでしょうか。これについてもいずれかの機会ということで・・・・・・。
さて、今回小生が述べていることだけでも今まで語られてきた歴史とは随分違うとは思いませんか。それでは続いて次に進みましょう。まずは三国同盟締結についてです。半藤一利は米内・山本・井上の三名は命を懸けてこれに反対したと自らの著作で述べているが、これは大いに怪しいと言わざるを得ません。山本は確かに周囲にはこの同盟について消極的な考えを漏らしていたが、その理由の一つはまだ時期尚早というものだったのです。決して何が何でも絶対反対ということではありません。もう暫く国際情勢を見届けてからという意味あいですね。そして、もう一つは米・英と戦うには連合艦隊の戦力の更なる増強を欲していたからです。特に空母と航空機の数です。まあ軍人の実船部隊の指揮官としての戦力に関する要望は欲を言わせれば切りがないのですが・・・・・。
とにかく三国同盟を独・伊と結べば米・英との戦争の可能性が非常に高くなるのは当然であり、山本だけではなく海軍の上層部は本音では当然そのことを理解していました。勿論米内もね。そして海軍の強硬派の唱える米・英可分論などは日本を対米戦へ持っていくための詭弁の一つにすぎません。しかし米内のとった本音の行動は歴史で今まで巷間言われてきたこととは全く違っていました。米内は同盟に“反対の振り”をしたのです。ぶっちゃけた話、“表面的には反対の振り”をしていたのです。つまり後の米内自身や井上のアリバイ工作も兼ねていたのですが、勿論米内の腹の仲は全く逆でした。そして山本に近づき「お前と同じ考えだ」といったのです。これは山本を安心させるためだったのですが・・・・・。そしてその後、半年程かけてやはり三国同盟は必要であり、締結するべきであると山本をリードしていったのです。つまり山本は米内の情報工作にひっかかったのです。米内というよりはスターリンの情報工作と言った方が正しいのですが、勿論山本自身は最後まで、つまり死ぬ間際までそれには気づかなかったのです。情報工作とはそういうものなんですが・・・・・。


井上成美(軍務局長、航空本部長、第四艦隊長官、開戦時海軍少将、終戦時海軍大将)も同盟反対を唱えていましたが、そもそも井上の工作員としての役割は“米内のダミー”ですからね。米内と歩調を合わせて三国同盟反対を唱えるのは井上の当然の役割ということになります。なにしろ、これも工作の一環なわけですから。もう一人嶋田繁太郎(海軍大臣、軍令部総長、海軍大将)という人物がいますが工作員としては米内の下の位置に当たります。つまり米内から情報や指示が直接嶋田に行っていたのです。もうお分かりでしょうが、じつは米内・嶋田・井上の三人はコミンテルンなのです。嶋田と井上の工作員としての役割は米内の名前を出しては拙いこと、米内の直接やれないことを代わりに行うことでした。つまりこの2人の任務は“米内の補足者”と言う立場でした。嶋田は高木惣吉(開戦時海軍省調査課長、終戦時海軍少将)や富岡定俊(開戦時軍令部1部1課長、海軍大佐、終戦時海軍少将)や石川信吾(開戦時軍務局2課長、海軍大佐、終戦時海軍少将)とは近く、井上は岡敬済(開戦時軍務局長、海軍少将、終戦時海軍中将)や石川信吾とも近い関係でした。米内は当然のことながら嶋田や井上、高木を通じて海軍の軍人官僚達をコントロールしていましたが、高田利種(開戦時軍務局1課長、海軍大佐、終戦時海軍少将)などは、時折直接接したりして可愛がっていました。なにしろ肝心の米内の主な役割はなんといっても海軍内全体の調整と海軍を中心とした軍人官僚の掌握ですからね。また高木惣吉は岡敬済とも懇意でしたし高田利種とも同様ですが、むろん石川信吾とも仲がよかった。そして石川と高田は近い仲でした。高田利種は共産主義者ですが岡敬済はコミンテルンです。かくのごとく日本海軍の内情は俄かには信じられない程酷い、いや酷過ぎるものでした。しかし残念ながら、これはまだまだ序の口なのですが・・・・・。
因みに米内光政のコード・ネームは“シャドー”です。嶋田繁太郎や井上成美にはコード・ネームはありません。ソ連側からすれば米内と比べれば重要度が高いレベルの工作員ではなかったようです。何と言っても海軍内では米内が最重要で最も中心の工作員だったのです。ところで米内ですがスターリンの指示により共産主義者であることが絶対ばれないようにしていました。そしてそれは成功だったといえます。戦後70年も経つのに未だに米内が共産主義者だったという話は一切、作家や戦後出版された海軍軍人達の著作にも書かれてないし、小生としても見たことも聞いたこともありません。他の海軍軍人も、口を噤んで米内の思想については一切語りません。せいぜいロシア通かロシア贔屓か、あるいは親ソ連といったところでしょうか。お見事ですな。さすがですね、“シャドー”というコード・ネームはだてではありませんな。そもそもこの様なコード・ネームを授けたのはスターリンですが・・・・・。
ところで米内光政にとってなんといっても深い関係だった部下は高木惣吉です。なによりも米内と高木の人間関係は普通ではありません。まるで義兄弟の如しです。当然、以心伝心のツ~カ~の仲でもあります。阿吽の呼吸で海軍内での二人三脚の工作を行っていました。例えば、あの石川信吾を米内は嶋田や井上や高木を使ってコントロールしていましたが、特に石川は米内の指示により嶋田が直接可愛がっていました。勿論米内も石川とは接していますが高木を間にいれて三人で会うことが多かったのです。石川信吾の態度が巷間言われている様にやけに大きかったのは、石川の後ろに米内や嶋田や井上がいたからなのです。更に複数の右翼(といっても表面上は国家社会主義や大アジア主義を標榜する偽装右翼だが)の大立者と親しかったこともその理由の一つでしょう。これについて言えば、石川はこれらの人物とは米内・高木を通じて知り合ったのですが・・・・・・。
ところで石川は違うのですが高木は勿論コミンテルンです。尤も石川は計画経済の信奉者で共産主義者ではあるのですが・・・・。更に言えば高木は嶋田や岡敬済とも近い関係だったのです。それにしても、不思議なことに、これらの人脈に一向に山本五十六が絡んできませんね。そうなのです、実際山本はこの頃海軍内で浮いていました。近かったのは米内だけでした。これは、海軍内の山本以外の軍人に米内が指示を出していたのです。山本にあまり近づかない様にとね・・・・・。必然的に山本は海軍内で仕事上も米内一人を頼るようになりますな。事実そうなりました、おまけにプライベートでは何といっても山本の愛人である河合千代子との仲を米内が取り持ったわけですからね。これも米内が仕掛けた工作の一環であり、山本への工作の第一歩だったのですが・・・・・・。
話は変わりますが、高木惣吉は米内の指示によって海軍内に「第二昭和研究会」と言えるものを作っています。これは海軍内を赤く染め日本を米・英戦に持っていくためのものでした。尤もこれは“陸軍のある人物”から米内への指示によるもので、あの「昭和研究会」を作る様に近衛文麿に指示した人物なのですが、米内はこの人物に対しては尊敬すると同時に絶対服従していました。海軍のこの「第二昭和研究会」に監視役として矢部貞冶(東大教授、政治学)を送り込んだのも米内ですが、裏はやはり陸軍のこの人物の肝いりでした。矢部とこの陸軍の人物とは緊密な間柄でした。そして、この矢部もまたコミンテルンなのですが“陸軍のある人物”とは違って米内とは特別親しいわけではなく普通の関係でした。実はまだまだ海軍内には以上述べてきた軍人官僚以外にも実戦部隊の指揮官や参謀を含めて共産主義者が呆れるぐらいゴロゴロ存在し(冷笑)、コミンテルンも、まだまだ存在していたのですが、二人の“ある人物(そのうち一人は陸軍軍人)”につきましては、これらの人物にまで枝をのばしますと、それだけでまた延々と書かなければならなくなりますので二人共それぞれ何れかの機会と言う事で・・・・・。
それにしても私メとしては本当に日本海軍には心底呆れ果ててしまいましたが、本番は寧ろこれからなのですよ(呆れ笑)。 結局日本海軍を徹底的に解剖するには、日露戦争はおろか日清戦争まで、いや幕末まで遡らなければ真実には辿り着けないということになるのでしょうかね・・・・・・。(次回に続く)