「英霊は安らかに眠り給うか・・・」第一章

昨年は安倍総理大臣がアメリカを訪問し連邦議会で演説しました。アメリカ国内ではなかなかの高評価だったようです。そして今年はオバマ大統領がG7出席のために来日し広島を訪問しました。これについても日本国内では概ね良い評価だったようです。この機会をきっかけに日・米の真の和解に向かってスタートがきられることを心から願いたいと思います。そして、だからこそ日・米ともにあの戦争について虚心坦懐かつ真摯に考えてみる良い機会であると私メは思うのです。取りあえずは、先ず日本側から私メの多いなる疑問点を虚心坦懐に(微笑)述べたいと思います。日本人である小生としては、あの戦争さえなければ広島、長崎への原爆投下は無く、沖縄戦も生起せず、北方領土問題も無く、竹島や尖閣諸島の領有権問題もあり得なかったのであり、戦争に至った原因を解明することは絶対的に重要であることは論を待たないのは当然であるにもかかわらず、いっこうにその究明は前進せず、それどころか、従来の通説・定説の固定化やその補強に終始しているように思われてしょうがないのですがいかがなものでしょうか?つまり、従来の通説・定説に根本から疑問を感じざるを得ないのです。ここはやはり、一からやり直す必要性があるものと断じたい。 (以下文中、全て敬称略)

今回のゲスト 山本五十六(やまもと いそろく)

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1884年(明治17年)4月4日 ~ 1943年(昭和18年)4月18日、日本の旧海軍軍人。第26、27代連合艦隊司令長官。海軍兵学校32期生。最終階級は元帥海軍大将。栄典は正三位大勲位功一級。1943年に前線視察の際、ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)。
山本はアメリカとの戦争は無謀と知りつつ海軍軍人・連合艦隊司令長官としてアメリカを仮想敵とした戦略を練り、ハワイ島真珠湾奇襲作戦を発案・実行したとされるが、さて、その真相は如何に・・?


日本にとって昨年は戦後70年の節目でもあり、日本ではあの戦争、すなわち大東亜戦争について予想どおりマスメディアは盛んにこれを取り上げたものですが残念ながら相も変わらぬ取り上げ方ばかりで何の進歩もありません。というのも従来どおりのいわゆる蛸壺史観そのものなのです。なぜ日本があの戦争に突入したのかますます不可解になるばかりです。つまり真相は、我々日本人にとっては相も変わらず藪の中というわけです。少なくとも私メにはそう感じられるのです。
そもそも日本海軍の空母機動部隊が真珠湾を奇襲攻撃した経緯も従来から言われていることが果たして正しいのか怪しいものです。さらに日本は本当に自存自衛のために戦ったのでしょうか。そして真珠湾の奇襲攻撃の立案は山本五十六が独自に考えたものなのか、はたまた山本五十六には本当に勝算があったのでしょうか。我々日本人はこのあたりから根本的に考え直してみなければなりません。戦後、散々言われてきた通説や定説を一旦白紙に戻して根本から疑う必要があると私メは思うのです。 これらの疑問に答えを出すために、まず山本の頭の中と胸の内と腹の底(笑)を解剖しなければなりません。巷間いわれてきた、山本は親米だった、山本は三国同盟に反対だった・・・・・。 まず、ここから疑ってかからなければならないと思うのです。要するに、これらの通説や定説は初めから嘘構ではじまっているのです。なぜか?そのような嘘を流し定説にするべく図った人物達(主に作家、学者、ジャーナリスト、元官僚等)が相当数いるのです。その代表的な人物の一人が鬼籍に入っている作家の阿川弘之であり、五味川純平等々であり、最近では半藤一利と保坂正康、それに加藤陽子も加えてもよいでしょう。この三人の内の2人(半藤と保坂)は世間では昭和史の権威とか泰斗などと称されていますが・・・・・・。
それにしてもこの「蛸壺史観」は誰が名付けたのか知りませんが何とも云いえて妙な言葉だと思います(笑う)。さっそく私メは、この御三方に昭和史の権威ならぬ「蛸壺史観三人衆」、「蛸壺史観トリオ」、ついでに、もう一つおまけに「蛸壺史観三羽烏」なる呼び名を献上しているのですが(失笑)、それはともかくとして、大いに問題なのは我々一般国民も、無意識のうちに小説、映画、テレビ番組の歴史物等で頭の中に彼らの言説や主張が繰り返し、繰り返し、くどく・しつこく・ねちっこく(笑)、これでもか!とばかりに刷りこまれており、これらの通説や定説は近現代史のもはや常識となっており、我々の脳味噌の中にしっかりと刷り込まれ、こびり付き、言わずもがなの歴史の真実の様になってしまい、誰も疑問を差し挟む余地など無いかのごとくになっているのです。

いやはや、まったくもって困ったものです。なにせ、あの戦争では軍人・軍属・民間人併せて300万人以上が亡くなっているのです。これらの亡くなった人々は天国で、いや靖国神社で従来からの通説や定説を鵜呑みにしているのでしょうか?それで(従来からの通説・定説で)納得しているのでしょうか?本当は戦時中からあの戦争に疑問を持ちながら死んでいった人々も少なからずいたのではないかと思われてしょうがないのです。
まして生き残った人々や戦後生まれの人々は戦後以来の通説・定説を殆どが真に受けているのでしょうか?私メにはとてもそうは思えません。少なからず疑問を持つ人々はいるのではないかと思われます。従って小生としては、一市井の身ではありますが一人の日本人としてこの所謂「蛸壺史観」を、このまま、いつまでも放置しておくわけにはまいりません。
微力ではありますが従来の通説・定説に挑戦することをここに宣言するものであります(毅然)。フォロワーの皆様の内のたった一人でも従来の通説・定説に疑問を持ち、猜疑の眼差しを向ける様になって頂ければ幸いです。なぜならば、それがきっかけとなって近現代史の謎や闇を解明し、真実に辿り着く第一歩になるかもしれないからです。ただし真実とは時に残酷なもので我々日本人にとって耳に心地良いことばかりではなく、むしろ聞きたくないことも多いかとも思いますがその旨、予めお断りしておきます。
さて、長い前置きはこのあたりまでにして、私メがこの挑戦を本日より始めるに当たって、その切り口を何処から持ってくるか悩んだのですが、切り口は多々あれど、とりあえず誰かさん(笑)が曰く“悲劇の海軍大将”?である山本五十六にスポットを当てることから始めたいと思います。何故山五十六からか?それは彼が日本の海軍軍人の中で知名度が高く比較的多くの日本人に男女の別なく知られているからです。数年前には役所広司主演で映画にもなりましたしね。そしてなによりも違った意味での「悲劇の海軍大将」だったからでもあります。 いや、むしろ「喜劇の海軍大将」だったのかもしれません。こういうと山本五十六ファンには大顰蹙を買うかもしれませんが・・・・・。 ところで、山本五十六という戦時の実戦部隊である連合艦隊を率いた人物を切り口としてスタートする前に、事前にお話ししておきますが私メは少年期、青年期を通じて日本海軍のファンでした。子供のころ、あれは確か小学校に入学する直前のころだったと思いますが、当時池袋西口にあったオモチャ屋さんで私の叔父に軍艦模型を買ってもらったのですが、当時のこととてプラモデルは、まだ存在しておらず、木製の組み立て式の軍艦模型キットでした。今でも覚えていますが、それは日本海軍の青葉型重巡洋艦の2隻の同型艦の内の一隻である衣笠というネーミングの船でした。船体(約30センチぐらいの小さなもの)、艦橋、砲塔、魚雷発射管などで構成された木製の組み立て式のオモチャのキットなのですが砲塔の主砲が竹製で焼き鳥の串ぐらいの太さだったのを覚えています。それ以来自動車や飛行機、電車や機関車等動くものが大好きだった私は、これをきっかけに軍艦にも興味を持つようになったのでした。 だから日本海軍の航空母艦・戦艦は勿論のこと重巡・軽巡などは全ての艦艇の名前をスラスラと言えたものでした。そのような理由でアメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・ソ連(現ロシア)の軍艦や、飛行機、戦車などに興味を持つようになったのは自然だったのかもしれません。翻って思うに、それは小学生高学年の時に何かの教科書に載っていた日露戦争の日本海海戦時の絵を見た時が私メの日本海軍ファンになるきっかけだったと思います。その絵は戦艦三笠に挫上する東郷平八郎連合艦隊司令長官とその幕僚達を描いた、あの有名な藤田嗣治画伯の作品で、これを機会にこの海戦の詳細を調べたりしたのが日本海軍のファンになる始まりでした。 その私メが歴史の真相追求のためとはいえ日本海軍の歴史の裏面や闇(すなわち隠された真実)を追求し探求することになるとは夢にも思わなかったのですが・・・・(苦笑)。 さて、話をもとに戻しましょう。日本海軍がハワイの真珠湾軍港の奇襲攻撃を意識し始めるのは一体何時頃のことだったのでしょうか?これには、一人のイギリス海軍の提督の話から始めなければなりません。その名はフルネームでサー・ウィリアム・フランシス・フォーブズ・センピルという人物なのですが知っている方も結構いるのではないでしょうか。サーが名前に付く様にスコットランド出身の貴族です。この人物は日本の海軍航空の父とも言える人物であり、彼の存在なくして日本の海軍航空があのような短期間での急速な発展を成し遂げることは不可能だったと私メは思うのですが・・・・・。
彼はイートン・カレッジを卒業後、第一次世界大戦でパイロットとしてのキャリアをイギリス陸軍航空隊でスタートさせ、次いでイギリス海軍航空隊でも経験を積み、さらにイギリス空軍でもそのキャリアを継続し、いくつかの記録を樹立した航空先駆者でもあったのですが1921年に日本へセンピル教育団なる軍事顧問団を率いて来日し、イギリスの最新の航空機を紹介したり、海軍航空技術や戦術に関するレクチャーをしたのです。しかし日英同盟が1921年に廃止され、1923年8月17日に失効すると決まり同年にイギリスへ帰国することになったのです。しかし彼の帰国後も日本海軍との繋がりは続くのですが・・・。
ところで、当時の世界の海軍航空戦力についてはイギリス海軍が世界の最先端をいっていました。例えば世界最初の空母アーガスを保有しており、2隻目のイーグルも建造していました。 イギリスは正に世界の海軍航空をリードしていたのです。日本初の空母である鳳翔はイギリスの技術指導によって飛行甲板を完成できたし、着艦拘束装置も同様です。さらには大型航空爆弾の存在と、その技術についても日本に教えています。もちろん空母への着艦技術の指導もセンピル教育団の航空士官であるエース・パイロットのフレデリック・ジョセフ・ラトランドによって訓練を受けていました。若き日の山本五十六や大西滝冶郎も空母への発着艦技術の指導を受けていたのです。
そういえば、日本海軍の空母機動部隊がインド洋海戦で撃沈したイギリスの軽空母ハーミーズは日本の空母鳳翔の改装前の艦型によく似ています。特に艦橋などはそっくりだと思います。実はこの空母はイギリスから設計図を日本に持ち込んで建造されたのです。この空母の竣工は本家イギリスよりも僅かに早かったのですが・・・・・・。
このようにイギリス海軍の指導なくして日本海軍の航空戦力の急速な発展はあり得なかったと私メは思うのです。そしてセンピルはこの来日中に新しい海軍航空戦術についてレクチャーしています。それは島嶼に築かれた港湾や軍港への従来とは全く違った新しい攻撃方法についてでした。センピルは名指しで真珠湾とは言っていないのですが、このレクチャーを聞いた日本の海軍軍人達の脳裏に真珠湾やセイロン島(現在のスリランカ)のコロンボ港が真っ先に浮かんだのは想像に難くないでしょう。つまり真珠湾への空母艦載機による奇襲攻撃はセンピルによるレクチャーが基になったのです。
それ以来日本海軍の上層部は航空機による真珠湾の奇襲攻撃の可能性を意識することになったのです。ましてやワシントン軍縮会議やロンドン軍縮会議によって主力艦や補助艦の保有量を対アメリカ・イギリスのそれぞれ6割(主力艦)・7割(補助艦)に抑えられ、益々その方向性や可能性を強く意識するようになったのです。
作家の阿川弘之は真珠湾の奇襲攻撃を彼の著作の中であっさりと、それもサラット(笑)、それでいて迷いなく(苦笑)既定の事実として山本五十六の発案・実行と頭から決めつけて断定していますが、おそらく戦後、一般の日本人にとっては、これが通説・定説となる端緒になったと思われます。もっとも、真実を知る海軍軍人達は戦後口裏を合わせて山本五十六の発案・実行を吹聴してきたのですが真実は以上述べたとおりなのです。
ここまで述べただけでも、いわゆる蛸壺史観ではとても真実には近づくことさえできないことが理解できるというものです。イギリスやもちろんアメリカ、そしてソ連(現ロシア)やドイツまでも含めて論じなければとてもあの戦争の真実には迫れないのです。それはともかくとしても、どうやら日本の近現代史家や作家には阿川弘之の書いた三部作である『山本五十六』、『米内光政』『井上成美』の著作の中身を概ね踏襲しなければならないという不文律が存在して居る様ですね(冷笑)。それが証拠にいままでこの通説・定説に異を唱えた人物(歴史家、作家、ジャーナリスト等)を私メは寡聞にして聞きません。既にというか、とっくにというか、何人も異を唱える事のできない常識中の常識になってしまっているのです。
もっとも、このような手法というか手口は阿川弘之が初めてではなく、古くは明治十六年に遡ります。それは小説『汗血千里の駒』という著作で、自由民権派のジャーナリストとして活躍したといわれている坂崎紫瀾の作品で、明治になってから暫くの間、一般には殆ど忘れられた存在だった坂本竜馬復権のきっかけを作った人物です。これは小説の体裁をとってはいるものの、坂本竜馬についての最初の評伝というべきものです。阿川弘之はこのやり口を踏襲したものといえます。もっともその後、他の作家やジャーナリストがこの手法を使ってきたのですが・・・・・。
その典型的かつ最も有名な人物があの司馬遼太郎なのです。戦後の竜馬のイメージ作りに、司馬の作品である『竜馬がゆく』が果たしたのとほぼ同様の役割を果たしたのが坂崎紫瀾の作品『汗血千里の駒』なのです。坂崎のこの著作は発表時にはかなりの人気を博した様です。この作品の触発を受けて大正に入ってから竜馬関係の資料の整備や編纂が行われるようになり、本格的な伝記(虚実入り混じった)の公刊へと繋がっていくのです。ところが、実は坂﨑のこの作品は、とある人物が自らの幕末から明治維新にかけての歴史上の足跡を消すために書かせたのですが・・・・・・。
このことについてはいずれかの機会にということで。古近東西、「事実は小説より奇なり」と言いますが、是非楽しみにしてお待ち下さいネ(微笑)。
さて話をもとにもどします。では、何故に阿川は真珠湾の奇襲攻撃を山本五十六の発案と実行と書いたのか?そもそも、これを前提に『米内光政』、『井上成美』も書かれているが、恰も米内と井上が山本五十六の発案・実行の証人のようです。非常に狡猾な書き方といわざるをえません。おまけに、三国同盟についても、まるで規定の事実のごとく山本・米内・井上の三人は反対だったと断定しています。本当にそうなのでしょうか?反対していた山本・米内・井上が賛成にまわったプロセスが詳細には書かれていません。
小生としてはこのプロセスが一番知りたいのですが。これ等のことを勘案すると小生としては何か裏があるのではないかという疑問が強く湧いてくるのです。つまり、あの奇襲作戦は山本一人の発案と実行によるものにしないと都合の悪い人物が海軍の中に存在したということになるのではないか。それも複数いたのではないのか。更にそのうえ、その人物達はかなりの重要な役職に就いていた人物なのではないかと思われるのです。阿川弘之のこれらの三部作には小生から見ると明らかな情報操作や印象操作の形跡が見受けられます。むしろ単刀直入に言えば情報操作と印象操作のために出版された作品であると言わざるを得ないのです。(続く)

ということで、長い話になりそうですので、これをご覧になっている皆様の気力と体力をご考慮いたしまして(とは言っても、私メもですが)今回はここまでといたします。では、次回まで、暫くのご休息を・・・。