第五章

ジャッジメント作戦とは1940年11月11日から12日にイギリス海軍が実施した空母艦載機によるイタリアのタラント軍港に対する航空作戦のことで※MB8作戦の一部として実施されたものであり、一般的には「タラント空襲」と呼ばれています。
イギリス海軍によるこの作戦でイタリア海軍は戦艦3隻が大破し行動不能に陥る大損害を被ったのに比べてイギリス海軍側は僅かに雷撃機ソードフィッシュ2機のみの損害だったのです。タラントとはイオニア海に面した都市であり地中海におけるイタリア海軍の一大拠点で重要な軍港がありました。この軍港には当時、コンテ・ディ・カブール、アンドレア・ドリア、ジュリオ・チェザーレ、カイオ・ドゥイリオの外、ヴィットリオ・ヴェネトやリットリオ等の戦艦群等を配置しており、その他巡洋艦数隻と多数の駆逐艦を配備していた正にイタリア海軍の一大拠点でした。
この港湾の防備については、タラント湾の港湾部に防空砲台とサーチライトを設置し、戦艦5隻はタラント市街に近い湾奥部に配置し、その外側に巡洋艦と駆逐艦数隻を停泊させていました。そしてイタリア海軍はこれらの艦隊を守るために周囲を魚雷から防護する防雷網を配置し、航空攻撃を阻害するための阻塞気球も設置して防御していました。市街地を挟んで、その反対側に位置したマーレ・ピッコロ軍港内にも巡洋艦と多数の駆逐艦を配置しており、その岬には水上機の基地が存在しました。さらにタラント軍港には艦隊に燃料を補給するための貯油施設があり、その周囲にはサーチライトは設置されていたものの、防空砲台は軍港に比べて少なく対空能力は強力とは言えなかったのです。
このことにより、イギリス海軍は第二次世界大戦の開戦前からタラント軍港のイタリア海軍に対する空母艦載機による奇襲攻撃を考えていたのです。何やら真珠湾の奇襲作戦と比べてもこの「ジャッジメント作戦」は絶好のモデル・ケースとなりうる作戦だとはおもいませんか。因みにこの作戦の立案は、あのセンピルではなくてイギリス海軍のリスター少将によって具体的な作戦が立案されました。勿論参考になったのはセンピルの日本海軍にレクチュアーしたあの同じコンセプトでしょう。因みに日本のハワイ作戦について語る史家や作家(特に阿川弘之と“蛸壺史観三羽ガラス”)はこの作戦について殆ど触れていませんが、それだけでこれらの輩は真珠湾奇襲について語る資格は全く無しと断定したい(嘲笑)。真珠湾の第一次攻撃隊の指揮官だった淵田美津雄中佐は後日あの攻撃作戦はタラント奇襲作戦がモデルだったとはっきり述べていますが・・・・・・・。
例の阿川弘之と“蛸壺史観三羽ガラス”は無知なのか、それとも何らかの理由で敢えて語らないのでしょうか。小生の記憶が間違いでなければ、加藤陽子は『あの戦争になぜ負けたのか』(文春新書)という対談本の中で「戦例としては1940(昭和15)年4月~6月、ドイツが航空兵力によって連合軍の水上艦艇を攻撃し、ノルウェイの占領に成功したノルウェイ作戦の成功が参考にされたともいわれています。」と述べているが、まあ彼女の軍事史の知識のレベルはこんなものなのでしょうと呆れたのを覚えています。全くの的外れであり問題外もいいところなのです。
なぜならば、この三軍統合作戦でドイツ軍が使用した航空機は空軍の陸上基地発進の航空機であり爆弾は使用しても日本海軍の保有する機材よりも搭載能力が大きく、それにドイツ海軍には空母はないのです。日本海軍がハワイ作戦で使用したのは空母から飛び立った空母艦載機であり、またドイツ軍の様な三軍の統合作戦でもなく、日本陸軍との共同作戦でもありません。ハワイ作戦は世界ではじめて空母六隻を集中使用した日本海軍単独の作戦なのです。
それに日本海軍は97式艦上攻撃機による800キログラム徹甲弾を使用した水平爆撃だけでなく航空魚雷による雷撃も同様に重視しており、水深の浅い真珠湾ですがこの奇襲作戦になんとか航空魚雷を使えないものかと苦心していたのです。付け加えれば当時のドイツ空軍はあの電撃戦(空地一体戦)で多用した有名なシュツーカ(ユンカースJu87)による命中率の高い急降下爆撃を主な攻撃戦法としており,敵の艦船に対するピンポイントの攻撃はこのユンカースJu87を使用して500キログラム爆弾を搭載した急降下爆撃をもっぱらメインの戦法として使っており(1トン爆弾を使用した水平爆撃も可能)、片や日本海軍の艦載の急降下爆撃機である99式艦上爆撃機は急降下爆撃の場合は250キロ爆弾までしか搭載できず(水平爆撃なら2発搭載可能)、日本海軍とすればこのドイツ軍の侵攻作戦に使用した航空機(双発のハインケルHe111爆撃機も含む)と日本海軍の使用する航空機(99式艦爆も97式艦攻も単発である)にはペイロード(搭載能力)の違いによって搭載する爆弾の威力の差や、特に日本海軍が重視した航空魚雷の使用など重点を置く攻撃手段にも差があり、あまり参考にならず興味の外だったのです。
尤も加藤陽子はさすが“蛸壺史観三羽ガラス”の一角を占めるお一人で、やっと日本以外の戦例が出てきたと思ったら案の定このレベルでした(嘲笑)。ついでに言わしてもらえば情けないことに、この対談本の中にご登場する他の出席者たちもこの彼女の意見に異を唱えたり他の見解を述べる者は一人もおりませんでした。お互いが遠慮したのでしょうか?、そんなナアナアの対談では真相を導き出すことなど望めないし、単なる親睦を目的にした仲良しごっこの延長の座談会に過ぎないのではないでしょうか。なにより、この本を購入した読者に対して失礼だと思います。それにしても東大の現役教授の彼女に近現代史を語られる東大生の諸君はまことに気の毒だと同情せざるをえませんが・・・・・(含笑)。
なによりも、ハワイ作戦について語るならば「センピル教育団」、海軍大学の『対米作戦用兵に関する研究』、そしてイギリス海軍の「ジャッジメント作戦」について語らなければとても真相には辿り着けません(無論それだけでも辿り着けないが、これ以外については後に述べます)。ではハワイ作戦は何を参考に立案されたのでしょうか。それは今まで述べてきたように、センピルのレクチュアーが発端だったのであり(これがハワイ作戦を語る上での一丁目一番地である)、それ以来、延々・脈々そして着々と研究され続けて昭和11年に作成された海軍大学の『対米作戦用兵に関する研究』に結実したものであり、山本五十六がそのプランの実行を迷うことなく確固たるものとしたのがイギリス海軍による「タラント空襲」だったのですが、勿論その決意に山本が至った経緯には他にもそれ相応の驚くべき決定的な理由がありました。次回はいよいよ山本五十六の対米・英戦に向かっての「頭の中・胸の内・腹の底」に迫って行くことになります(つまりハワイ作戦の真相に迫る)のでご期待ください。(次回に続く)

注 解(これらの注解は主に一般的な定説・通説に基づいています。)

※MB8作戦
MB8作戦はイギリス軍が1940年11月に地中海で行った作戦である。地中海艦隊とH部隊の5隻の戦艦、2隻の空母、10隻の巡洋艦などが出撃した。この作戦は次のようなものを含む。エジプトからギリシャへ向かうAN6船団、アレクサンドリアからクレタ島スダ湾とマルタへ向かうMW3船団、マルタからアレクサンドリアへ向かうME3船団、エーゲ海からエジプトへ向かうAS5船団、地中海艦隊への増援とマルタへの兵員、物資輸送(コート作戦 Operation Coat)、シチリア島の飛行場空襲(クラック作戦 Operation Crack)、軽巡洋艦2隻によるポートサイドからスダ湾への兵員輸送、軽巡洋艦オライオンによるポートサイドからギリシャへの空軍の人員などの輸送、タラント空襲(ジャッジメント作戦 Opetation judgment)、オトラント海峡での敵船団攻撃。この作戦のためジブラルタルからはH部隊が、アレクサンドリアからは地中海艦隊が出撃した。増援部隊と合流後、地中海艦隊の空母イラストリアスはタラント攻撃に向かい11日から12日の夜にイラストリアスから発進した攻撃隊はイタリアの戦艦3隻を撃破した。この攻撃後軽巡洋艦オライオン、シドニー、駆逐艦ヌビアン、モホークからなるX部隊がオトラント海峡へ派遣され、このX部隊は4隻の商船とその護衛の旧式水雷艇ニコラ・ファブリッツィ(Nicola Fabrizi)、仮装巡洋艦ラム3世(Ramb III)からなるイタリア船団を発見、攻撃して商船4隻すべてを沈めた(オトラント海峡海戦)。

・上記注解は「wikipedia」 1917.2.4 より部分転載