第六章

1940年のイギリス海軍が実行したタラント空襲に日本海軍は括目しました。早速、山本五十六は米内光政にこの作戦の詳細を手に入れるよう依頼し、米内は、例の豊田貞次郎~センピルのラインで情報を入手したのですが、山本は取り分け使用した空母の数と使用した航空機の機数と使用した搭載兵器である魚雷に着目しました。この攻撃の推移については以下の通りです。
11日21時にタラントの南方約272㎞で空母イラストリアスは第一次攻撃隊12機を発進させました。第二次攻撃隊は9機です。これら合計21機は全て複葉のソードフィッシュ雷撃機です。22時58分に第一波がタラント軍港上空に到達し、夜間のため2機が照明弾、4機が爆弾、残りの6機が魚雷を装着していました。但しこの魚雷は従来考えられていた魚雷ではなく、この作戦用にイギリス海軍が特別に開発した水深の浅いタラント軍港での使用を考慮した新型の魚雷でした。これについては後で述べますが、タラント攻撃の推移に話を戻します。1940年11月6日、空母イラストリアスは4隻の戦艦と共にアレキサンドリアを出港しました。そして、まずこの艦隊はマルタまでMW3船団を護衛したのです。さらに11月10日にはマルタの西方でジブラルタルから来援した戦艦バーラムなどと合流しました。更に11月11日18時には他の軽巡洋艦4隻と駆逐艦4隻が合流しました。これ等の勢力でタラントへの攻撃に向かったわけです。
もっともイギリス海軍は開戦時の地中海における空母戦力についてはアレキサンドリア港にイーグルが、そしてジブラルタルにアーク・ロイヤルの合計2隻が配備されていただけでした。しかし1940年9月にアレキサンドリアの地中海艦隊に新鋭空母であるイラストリアスが増援してこの艦隊の空母戦力が増強されると、イギリス海軍はマルタ島からタラント軍港の航空偵察を実施して港内の様子を詳細に把握しました。そして作戦の具体的なプランを立案しました。結局この作戦では地中海艦隊の保有する空母3隻の内の二隻、イーグルとイラストリアスの艦載機30~40機の戦力によって10月21日に実行されることに決まり、この作戦は「ジャッジメント作戦」と命名されました。ところが訓練中にイラストリアスで火災が発生するアクシデントに見舞われ作戦は11月11日に延期されました。しかし作戦行動開始の2日前に今度はイーグルでアクシデントが発生し作戦への参加が不可能となってしまいました。このために止むを得ずこの作戦はイラストリアス1隻で敢行されることになり、この空母の機材を補強するためにイーグルからソードフィッシュ雷撃機5機がイラストリアスに移されました。
結局1940年(昭和15年)11月6日、やっとイラストリアスは戦艦ウォースパイト、ヴァリアント、マレーヤ、ラミリーズなどを従えてアレキサンドリアから出撃したのです。そして11日21時にタラントの南方約272㎞の地点でイラストリアスは攻撃隊を発進させました。この攻撃隊はソードフィッシュ雷撃機21機で第一波12機と第二波9機から構成されていました。そしていよいよ1940年11月11日の夜間22時58分に第一波がタラント軍港上空に到着しました。この第一波は2機が照明弾を、4機が爆弾を、そして残りの6機が浅深度魚雷を装備していたのです。まず最初に照明弾が投下され、続いて爆撃がおこなわれ、さらに雷撃が敢行されました。この攻撃で戦艦コンテ・ディ・カブールに魚雷1本、戦艦リットリオに2本が命中しました。コンテ・ディ・カブールは沈没を防ぐために故意に艦を浅瀬に座礁させました。その約1時間後には第二波(2機が照明弾、2機が爆弾、5機が魚雷を搭載)が到着しこの攻撃では戦艦リットリオと戦艦カイオ・ドゥイリオにそれぞれ魚雷が1本命中したのです。この他にはトレント級の重巡洋艦のトレントとマエストラーレ級駆逐艦のリべッチオに爆弾が命中したもののこれは共に不発でした。魚雷を受けた3隻の戦艦は大破して着底しましたが、魚雷3本を受けたリットリオと魚雷1本を受けたカイオ・ドゥイリオは数日以内に排水し浮揚され応急修理を受けた後でアンサルド造船所に曳航されて行きました。しかしながらリットリオは1941年3月まで、カイオ・ドゥイリオは1941年5月まで行動不能になったのです。しかしカイオ・ドゥイリオと同じ様に魚雷1本を受けただけのコンテ・ディ・カブールの浮揚作業は非常に難航して他の僚艦の修理が完了した1941年にようやくやっとのことで浮揚が成功する始末で、結局終戦までに修理が完了せずに1952年に解体処分となっています。
一方のイギリス海軍の攻撃隊の損失は2機が撃墜されただけでした。一機目は第一波でコンテ・ディ・カブールへの雷撃に成功した機で、魚雷を投下した後で駆逐艦フルミーネの対空砲火で、二機めは重巡洋艦ゴリツィアの対空砲火によって撃墜されました。
このタラント空襲はイギリスのみならず日本も含めてアメリカなどの航空主兵論を後押しすることになりました。事実1941年12月の真珠湾攻撃やその後のマレー沖海戦と並んで大鑑巨砲主義からの転換のターニング・ポイントを求める際にタラント空襲があげられ、戦後もその転換期を示す際に用いられることがあるのですが、特に日本海軍は真珠湾攻撃の実施にあたり、この作戦を徹底的に研究したのです。ですが、このことについては阿川弘之も半藤一利も、そして保坂正康もあまり語りません。加藤陽子などは全くお門違いの例を挙げる始末です。いやはやお話になりませんな。
さてそれでは山本の話に移ります。この拙著「憂国のバラード」の中で真珠湾攻撃について述べるにあたり、切り口として山本五十六から入りましたが、実は日本側の真のというか影の主役は米内光政その人なのです。当然この「憂国のバラード」の論稿も主役は米内と言う事になります。だからこそ“トマスおじさん”が(笑)本邦初公開のコード・ネーム“ナターシャ”というスターリン直轄の女情報工作員の名前を公開したのです。そして更に言えば米内はこのスターリンと生涯で二度ほど直接会っているのです。その場所はナホトカとハバロフスクなのですが新潟港からナホトカへ渡航して会い、そしてナホトカ経由でハバロフスクでも会っています。勿論極秘のため、当然のことながら渡航記録は存在しませんので渡航日時もスターリンと会った日時も記録されているわけではありません。極秘中の極秘ですからね、しかしおおよその時期の推測はつくのです。核心に入る前に話を再び山本五十六に戻します。山本は部下には余りというか寧ろ決してその本心を明かさない性格だったといえるでしょう。海軍内では海軍士官学校の同期生である※1吉田善伍やせいぜい同じく同期の堀悌吉ぐらいの者だったのではないでしょうか。それ以外では幼友達や海軍外の人物とは信頼関係を持ちました。例えば20機以上の航空機を海軍に寄贈したあの右翼(偽装右翼)の大立者である※2笹川良一などです。ただし上司、取り分け人事権者には絶対的と言えるほど忠誠でしたが、これは長い海軍生活における彼流の処世術だったと思われます。

更に山本は海軍次官の時には宮中との交遊もありました。かなり親しい関係を築いたのが西園寺公望の政務秘書である原田熊雄です。この原田に述べた山本の考えについては後で述べますがその前に、外務省の斉藤博・駐米大使の娘婿である春山和典が書いた、岳父の思い出(『ワシントンの桜の下』)の中で述べられている斉藤大使と山本五十六との対話ですが、概ね次のように語っています。「俺も軍人だからね、やれといわれればアメリカともやってごらんにいれたいね、・・・・俺の夢なんだがね。空母10隻、航空機800機を準備する。それだけで<真珠湾>と<マニラ>を空襲し、太平洋艦隊とアジア艦隊を潰すことは確実にできるんだよ」、「少なくとも1年間は、太平洋にアメリカの船と飛行機は存在しないってわけさ。それだけのことはやって見せる」この山本の発言については知ってる人はご存じだと思います。これを語ったのが1934年9月のことですから私メが先に述べた例の海軍大学が研究し1936年に纏めた『対米作戦用兵に関する研究』の概念が相当具体的に煮詰まってきた段階であることと符号します。
この時期の山本は航空本部技術部長であり第一航空戦隊司令官の辞令を受ける直前です。自らの海軍軍人としての自負と自信が伺えます。センピル教育団が帰国した後に霞ヶ浦航空隊の副長に就任した山本は、大西滝次郎に概念としての真珠湾奇襲プランを立案させますが、これを叩き台にして纏めたのが海軍大学の『対米作戦用兵に関する研究』なわけです。しかし実際に差し迫るハワイ作戦を、あらたに勃発したタラント空襲をモチーフとして山本の指示で具体的な立案を図ったのは連合艦隊の参謀長の福留繁と先任参謀の黒島亀人でした。話を元に戻せば他に山本が語ったものとしては昭和15年9月の近衛文麿との会話が有名ですが、実は山本は近衛を嫌っていました。これは米内の影響があったと思れます。米内は近衛を馬鹿にしていましたが、米内に限らず近衛を嫌っている人物は結構多かったのです。米内からすればプライドだけは誰よりも高く、しょせん“お公家さん”の末裔であり、常に誰に対しても上から目線で接する鼻持ちならない人物で人望や徳もないと米内から聞いていたからです。でも米内が嫌う更なる理由は別にあるのですが・・・・・・(これについてはまた話が長くなるので、いずれかの機会ということで)。
つまり山本の近衛との会話は表面的なものだったのです。さて、それでは山本五十六と原田熊雄の会話にいきましょうか。非常に具体的であり真に迫るものが感じられますし、何より原田との腹を割った良好な関係が窺い知れるものです。これは『西園寺公と政局』の中に記録されているものですが、原田が面会者との数日間や数回の対談記録を確乎たるものにするべく原田が語って筆記させたものです(しかしながら、原田はコミンテルンなので情報操作や、印象操作されている部分も含まれると思われる)。従って、書かれた内容は面会者(山本五十六)が喋ったことのみであり、原田熊雄がどう尋ねたかは記録に残らない(推測は十分可能であるが)のでご了承ください。
以下・・・・1940年10月14日晩、山本五十六連合艦隊司令長官 食事・原田熊雄「実に言語道断だ。しかし自分は軍令部総長及び大臣の前で、これから先、どうしても海軍がやらなければならないことは準備として絶対に必要である。自分は、思う存分準備のために要求するから、それをなんとかしてできるようにしてもらわなければならん。自分の考えでは、アメリカと戦争するという事は、ほとんど全世界を相手にするつもりにならなければ駄目だ。要するにソヴィエトと不可侵条約を結んでも、ソヴィエトなどというものは当てになるもんじゃない。アメリカと戦争している内に、その条約を守って後から出てこないと言う事をどうして誰が保証するか。結局自分は、もうこうなった以上、最善を義して奮闘する。そうして長門の艦上で討ち死にするだろう。その間に、東京辺りは三度ぐらいまる焼けにされて、非常にみじめな目に会うだろう。そうして、近衛だのなんかが、気の毒だけれども、国民から八つ裂きにされるようなことになりゃあせんか。実に困ったことだけれども、もうこうなった以上は止むを得ない。」
この山本の談話の中で、冒頭に山本が「実に言語道断だ。しかし自分は・・・・・・」と述べていますが、何を以て「言語道断」と言っているのでしょうか?これは三国同盟を締結したことではありません(既に九月二十七日に締結されています)。近衛(総理大臣)や木戸(宮内大臣)や松岡(外務大臣)が三国同盟をもって日米戦争を防止するといっていることを指しています。それは近衛が国民にいずれ八つ裂きにされるだろうといっていることだけでなく、ソ連との不可侵条約(これは結果として日・ソ中立条約になったが)にも触れており、なおかつソ連への強い懐疑心も吐露しており、これは山本の本心でしょう。しかもアメリカとソ連の同盟への危惧についても漏らしています(これについてもアメリカは後にソ連に対して膨大な軍事援助を行っているので、あながち間違った予測とはいえません)。山本は共産主義シンパではあるが、この時点まではスターリンのソ連を全面的には信用しておらず、警戒心を持っていたことが覗われます。そして元々山本は三国同盟には巷間言われてきたような(半藤一利が述べているが)命をかけてでも絶対反対というよりは山本の周囲に対しては、むしろ消極的だったというのが正しいのです。上司の命令には絶対的に従うが、もっと国際情勢を見極めてから判断するべきと自らの主張を海軍上層部にも述べています。
結果としてこれは正しい判断だったと思われますが・・・・・・。山本五十六は海軍大臣の吉田善伍とも対米戦について話していますが、この時山本は吉田と、「アメリカと戦争になったら日本はお終いになる」と二人で語りあっているのです。勿論吉田善伍(共産主義者である)も本心では三国同盟には反対でした。1940年の近衛の私邸(※3荻外壮)で行われた※4荻窪会談(近衛の外に東条陸相、吉田海相、松岡外相が出席)で吉田善伍は事前にある人物にいわれて(これについても話が長くなるので、いずれかの機会に)三国同盟に賛成しています(本人は戦後否定しているが、これは虚偽である)。しかし後に対米戦必至とみてノイローゼになり、海軍大臣を辞任しました。さて話を原田熊雄との会話に戻します。ソ連への懐疑心を述べたのは、近衛と木戸(共産主義者である)が三国同盟にソ連を入れたいと考えており原田がそれを山本に伝えたからでしょう。山本が「言語道断」と語ったのは原田が「それでは三国同盟は寧ろ日米戦を引き起こしかねないという事か」と山本に語り、「ならば海軍はその準備ができているのか?」と問うたので、山本は「しかし自分は軍令部総長及び大臣の前で、これからさき、どうしても海軍がやらなければならないことは準備として絶対に必要である。」と強く要請したと答えたのでしょう。そして、原田は軍艦と飛行機の数は現有勢力で大丈夫なのか山本に聞いたはずです。

そこで山本は「自分は、思う存分準備の為に要求するから、それをなんとかしてできるようにしてもらわなければならん」という発言になったのでしょう。さらに原田は「結局のところアメリカとドイツで戦争が始まれば、日本はドイツに味方して参戦するほかなくなり、海軍が中心になって戦うことになる。]といったに違いありません。それを受けて山本は「結局自分は、もうこうなった以上、最善を義して奮闘する。そうして長門の艦上で討ち死にするだろう。その間に、東京あたりは三度ぐらいまる焼けにされて、非常にみじめな目に会うだろう。そうして、結果において近衛だのなんかが気の毒だけれども、国民から八つ裂きに・・・・・・・・」と話したのでしょう。
山本の論旨を分析すると、先に述べたように山本は共産主義シンパであり、親ロシアではあるものの、国家としてのソ連については全面的には信用しておらず、山本が馬鹿でも間抜けでも、ただのお人よしでもないことが窺い知れます。その証拠に、東京が空襲に会うがアメリカ軍の航空機はアメリカとソ連の同盟が成立する可能性があるので、その場合アメリカ空母から飛び立った航空機は沿海州に脱出するのではないかとまで予想し、危具していることです。これについては、“当たらずといえども遠からず”で昭和17年4月18日のドーリットルの東京空襲ではアメリカの空母から飛び立ったB-25爆撃機はソ連ではなく中国大陸に脱出したのですが・・・・・・・。
とにかく山本は日本本土がアメリカ軍の攻撃に晒されるようになることは予見していたようです。そして日本海軍が従来からの漸減邀撃作戦で臨めば惨敗し、自分も戦死するだろうと考えていたし、首相は近衛なので、三国同盟を締結した責任を追求されるだろうと思っていたようですね。つまり三国同盟締結を一番熱心に主導したのは他の誰でもない近衛その人だと山本は確信していたということです(実は米内も同罪なのですが山本は米内に嵌められたことに全く気が付いていません、これを情報工作と言うのですが)。ところが近衛は内閣を投げ出す形でうまく逃げたわけですが山本がそのことをどう思ったかはわかりません、死人に口なしですからね・・・・・・・。それに米内光政にしても内閣を総辞職したのは昭和15年7月16日であり、まったくもって手回しがよいというしかありません。必ず何か裏があるのでしょう(これについてもいずれかの機会ということで)。
要するに我々は単に表面的な事象を並べ立てた歴史を学んできたのです。そして作家や史家の表面的な事象についての恣意的解釈を繋げた歴史を今まで鵜呑みにしてきたといえるでしょう(それも本や新聞だけではなく映画やラジオ・テレビ等を使ってクドク、シツコク、ネチッコク、これでもか!とばかりにね)。そこには真実はありません。これについても、あの戦争の真相については米内だけでなく、近衛共々いずれかの機会ということで・・・・・・(含み笑)。おっと、また話がずれてしまいました(苦笑)。
それでは、山本と原田熊雄の1940年11月24日の、つまり先ほどの原田に対する山本の発言から約40日後に再び原田と山本が会った時の山本の発言内容を述べます。
以下・・・・・・、
1940年11月24日  山本連合艦隊司令長官、原田 午後3時大船から途中4~5時間ほど「連合艦隊の艦の数は、どうしてもこの倍にしてもらわなければならないし、飛行機の数も無論倍にしてもらわなければならん。そういう大きな艦隊がいよいよ編成された場合に、例えばもし戦争が始まって、東京がアメリカの空軍のために非常に爆撃されて火事になるというような場合に、作戦上、なほ連合艦隊は瀬戸内海等に引っ込んで、或る時期まで待機していなくちゃあならないというような余裕は、自分には到底ない。東京に非常な火災が起って、三度も四度もまる焼けに成るような時に、それを見ながら作戦上の或る時期まで黙っているというようなことは、到底自分のよくするところでない。そういう時に、どうしても米内大将が最も適任で、あの人に優る提督はないと思う。今日、こういう人物払底の時に、たとへ一度予備になっても、とにかくまだ一年経たず、海軍の知識には少しも欠けておらないのだから、いま自分は、大臣や次官に、米内大将をぜひ現役に復帰させてくれと要望しておるんだ。今日も、発つ前に催促に行ったけれども、お客があって会えなかった。」
この時の山本五十六の語った内容を分析すると山本は既に確信的にハワイ作戦を決行するつもりであることが覗われます。そしてソ連に対する警戒心は最早ありません。米・ソが手を結ぶ可能性をも危惧していたはずなのにです。そして今や予備役になっている米内光政を海軍に復帰させたいと強く望んでいることが窺い知れます。つまり戦力の増強を要求するためにも、先手を打ってハワイを奇襲する作戦を海軍上層部に認めさせるためにも米内を現役に復帰させたかったのです。つまり余程米内を頼りにしているのでしょう(含笑)。そして海軍伝統の漸減作戦には一顧だにしていません。つまり、この原田との会話の後の翌年の昭和16年1月七日に山本が及川海軍大臣に送った手紙の内容、すなわち「戦備ニ関スル意見」における敵艦隊との決戦とはハワイ作戦のことだったということがわかります。何しろ山本の原田熊雄との会話の前提がハワイ作戦なのですから。及川がこの手紙を隠していた理由もわかろうというものです。しかし小生が何よりも注目するのは、この原田に語った山本の論旨の内容とその変化です。
つまり、10月24日から11月24日までのこの40日間の間に米内がスターリンとハバロフスクかナホトカのどちらかで会ったと推測できます。そしてスターリンから米内に直々にハワイの軍事施設の情報(真珠湾の水深も含む)を手渡したと思われます。では何故、どうやってスターリンはこの情報を手に入れたのでしょうか?これは本邦初公開、いや世界初公開であり、アメリカでも公開されてはいないのではないでしょうか。
私メは自信を以て発表しますが、その人物はパー・ワトソンという人物です。この人物はフランクリン・D・ローズベルト政権のホワイトハウス内の側近で大統領の軍事顧問兼秘書でした。さらにスターリンはこのハワイの軍事施設が網羅された詳細地形図を米内に手渡した時に、この情報は私(スターリン)から直接受け取ったと山本に伝える様に言われたかもしれません。そうでなければ、あるいは米内がこの情報をスターリンから受け取ったと山本に告げたのかもしれません。なぜならば、スターリンも米内も山本がソ連を信用していないことを知っていたからです。なぜかといえば、原田熊雄はコミンテルンであり山本が原田に語ったことは全てスターリンと米内に筒抜けだったからです。この原田熊雄は交友範囲がやたらと広く、さまざまな要路の人物と接触を常にしていましたが、当然のことながら米内や松本治一郎や緒方竹虎などとも親しく近衛や※5木戸幸一とも昵懇だったわけです。この原田のコミンテルンとしての主な任務は西園寺公望や近衛文麿や木戸幸一の監視役ですがこのように山本や他の人物(例えば近衛など)の本音や考えを探ったりすることもその重要なコミンテルンとしての任務の一つだったのです(ちなみに毎月ソ連の工作員から金が渡っていましたし、ハニー・トラップにも引っ掛かっていました)。山本五十六が喉から手が出るほど欲しがったハワイの軍事施設の詳細図と水深の深さの情報を手に入れて山本はどんな気持ちだったでしょうか。実際のところ、これによって山本は即座にこの情報を信用したのです(ついでにスターリンのことも?)。
なにしろ、先に述べたように、かってこの情報を入手するべく米内光政~豊田貞次郎~センピルのラインで情報入手を図ったものの失敗したわけですからね。つけ加えればこの事によって山本の米内にたいする信頼感は絶大なものになったはずです。三国同盟締結により差し迫る対米戦を前にして山本が米内の海軍への復帰を強く望んだのもムベナルカナと思います。山本から見れば、なにしろ米内は山本が喉から手が出るほど欲した真珠湾の詳細な軍事関連の情報を手に入れるためにスターリンを動かしたわけですから。山本が必死に望んだ海軍の戦力増強のためにも、山本の考えに理解のある米内の海軍への復帰を望むのは当然だと思われます。そしてさらに重要なことは、山本が原田と1940年(昭和15年)10月14日に会ってから11月24日に再度会うまでの約40日間の間に山本にとって決定的なことが起ったのです。
それはもう言うまでもないでしょう。イギリス海軍によるタラント空襲です。さっそく例のラインで情報入手を図りますが、その結果真珠湾の水深とタラント軍港の水深がほぼ同じ(水深約14メートル)であることが判明したのです。さらにイギリス海軍が使用した浅深度魚雷の存在も知ることとなりました。これは山本にとって大きな朗報だったことでしょう。早速押っ取り刀で日本海軍の技術者を何回かシベリア鉄道経由でイギリスに送りました。
そして、その設計図を日本に持ち帰り、さっそく製造して実験に入ります。日本海軍が造った魚雷はほぼ90%がその設計図どうりでしたが残りの10%は日本側で改良したものです。それは日本側の魚雷は前部にフィン(ひれ)をつけたものでした。イギリス海軍の魚雷は後部にのみ付いていたのです。日本人お得意の改良というわけですね。そしてこの浅深度魚雷はギリギリでハワイ作戦に間に合います。とにかくこれで山本はハワイ作戦の難題(詳細な地形図の入手と浅い水深での魚雷の使用)の二つをクリアーすることが可能になったわけです。山本は大いに自信を深めたことと推察できます。後に残る最大の難題はいかにハワイ北方のイニシャル・ポイント(攻撃発起点)まで敵に探知されずに到達できるかという問題だけに絞られることになりました。
案の定、連合艦隊はこの直後から(11月から)97式艦攻や99式艦爆の雷撃・爆撃の猛訓練を鹿児島の錦江湾で実施させています。
さてタラント空襲が山本に与えた影響についてですが、それは日本海軍のハワイ作戦に使用する空母の数が当初の4隻から六隻に増えたことに関係しています。イギリス海軍は当初2隻で作戦を敢行する予定でしたが、その2隻にアクシデントが発生したため予定外だった空母イラストリアスの1隻のみで作戦を決行することになりました。参加した航空機も合計21機にすぎなかったのですがそれに比して戦果は大きかったといえるでしょう。山本は万が一のアクシデントに備える意味でも空母は増やすべきと考えたし、もし6隻の空母が(開戦時日本海軍は9隻の空母を保有していたが、そのうちの3隻は軽空母で搭載機数も少なく、航続距離も短く、なによりも荒れる北太平洋を航海するには軽空母では航洋性に劣るために作戦から外したと思われる)全て無事にハワイ北方の攻撃発起点に辿り着いたとしたら、搭載する航空機の数は相当な機数となり、アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与え得る可能性が高くなるのは必定ですので当初の計画から参加する空母を2隻追加したものと思われます。つまり万が一のアクシデントに備える意味と真珠湾在泊艦艇への攻撃で乾坤一擲の大戦果を狙ったものだろうと思われます。
実際、後にインド洋作戦では空母加賀が艦低を座礁して損傷するアクシデントに会って作戦に参加できなかったことがあり、さらに後の南太平洋海戦では商船改造空母ではあるものの,正規空母に準ずる能力を持つ空母飛鷹が機関故障のアクシデントによりこの海戦に参加できませんでした。どちらにしろイギリス海軍によるタラント空襲の戦果には、山本五十六以下連合艦隊の幕僚や日本海軍の上層部も含めて大いに触発され、影響されたことは間違いのない事実なのですが、どういうわけか(笑)日本の史家はあまり触れたがりませんね。
そして今回の最後にもう一つ重要なことを話さなければなりません。それは山本五十六にハワイ作戦実行のためのチームを編成するよう指示したのは米内光政だったということです。勿論スターリンの意向でした。おまけに言えば、山本がハワイ作戦を実行すべく軍令部に辞職を匂わせてその裁可を迫ったのも米内の山本への入れ知恵だったのです。それにしても山本五十六は戦死した後に元帥に昇格し、国葬で全国民に送られたのですが、その葬儀の葬儀委員長は皮肉にも米内光政でした。恐らく山本の戦死の一報を聞いた時の米内の胸中は山本の戦死にホットしていたのは間違いないでしょう(何しろ死人に口なしですから)。
しかしながら、これが歴史の真実であり冷酷な歴史の現実なのです。目を覆いたくなるほどの偽善だとは思いませんか?酷い話ですよね。これが小生が半藤一利とは違って、山本五十六を“喜劇と紙一重の違い”の“悲劇の海軍大将”と思わざるを得ない所以なのです。それにしても、あの戦争とは一体何だったのでしょうか? 
(以下次回に続く)

(文中敬称略)

注 解(これらの注解は主に一般的な定説・通説に基づいています。)

※1.吉田善伍(よしだぜんご)
明治18年(1885年)2月14日 - 昭和41年(1966年)11月14日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。海軍大臣、連合艦隊司令長官を歴任した。海兵32期を192名中12番で卒業。すでに日露戦争は開戦しており、「韓崎丸」で訓練を受けた後、「春日」艦長(加藤定吉)附として日本海海戦に参戦した。吉田が選んだ海軍兵科将校としての専門は水雷で、第一水雷戦隊参謀などを務めている。昭和12年(1937年)12月1日からは連合艦隊司令長官を務めるが、昭和14年(1939年)8月30日に阿部内閣の海軍大臣に就任。米内内閣、第2次近衛内閣でも留任した。昭和15年(1940年)に大将に昇進。軍事参議官、支那方面艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官などを経て、昭和20年(1945年)6月1日に予備役となる。昭和21年(1946年)公職追放となり[2]、昭和27年(1952年)追放解除された。

※2.笹川良一(ささがわりょういち)
1899年(明治32年)5月4日 - 1995年(平成7年)7月18日)は、日本の政治運動家、社会奉仕活動家。国粋大衆党総裁、国際勝共連合名誉会長、衆議院議員、財団法人日本船舶振興会(現公益財団法人日本財団)会長、全日本カレー工業協同組合特別顧問、福岡工業大学理事長を務めた。称号は箕面市名誉市民。勲一等旭日大綬章受章者。第二次世界大戦前の笹川は、自分を「大衆右翼」と位置づけベニート・ムッソリーニを崇拝、大衆運動の合法的組織化に力点を置いて国粋大衆党を結成。強硬外交を主張しつつ日本社会へのファシズムの浸透に注力したが、大東亜戦争(太平洋戦争)遂行には否定的であった。またマスコミからは、ファシスト、右翼、また政財界の黒幕として扱われ、「右翼のドン」と呼ばれた。CIAエージェントであったとも報じられている。また同時に「社会奉仕活動に熱心なお爺さん」というイメージを持たれる人物だが、その真相については様々な意見、論評があり定まっていない。また、後年に行った様々な慈善事業等や歴史学者による検証により、その功罪と評価は徐々にながら中和されつつある。

※3.荻外荘(てきがいそう)
荻窪の閑静な住宅街にある「荻外荘(てきがいそう)」は、内閣総理大臣を三度務めた政治家・近衞文麿(このえふみまろ)が、昭和12年の第一次内閣期から20年12月の自決に至る期間を過ごし、昭和前期の政治の転換点となる重要な会議を数多く行った場所。平成28年3月1日に、こうした歴史を持つ「荻外荘(近衞文麿旧宅)」が、日本政治史上、重要な場所として、国の史跡に指定された。荻外荘は当初、医師で大正天皇の侍医も務めた入澤達吉の別邸として昭和初期に建てられました。荻外荘の名は、昭和12年(1937年)に近衞が入澤から邸宅の譲渡を受けた後、近衞の後見人であった元老の西園寺公望が命名したといわれている。

※4.荻窪会談(おぎくぼかいだん)
第二次近衞内閣成立直前の1940年7月19日に公爵の近衛文麿が東京府東京市杉並区の私邸(荻外荘)に於いて開いた大臣就任予定者を招いて開いた会談で、ドイツ・イタリアとの提携強化を含む第二次近衞内閣の基本方針が話し合われた。この方針は、同年9月27日の日独伊三国同盟締結につながっていく。また、日中戦争が長期化・大規模化する中、ドイツ軍の電撃戦の成功によって、日本の支配層の南進の野望が大きくなった時代背景がある。(この年のドイツはベルギー、フランスを席巻し、さらにフランスを降伏させた。)

※5.木戸幸一(きどこういち)
明治22年(1889年)7月18日 - 昭和52年(1977年)4月6日)は、日本の官僚、政治家、侯爵。昭和天皇の側近の一人として東條英機を首相に推薦するなど、大東亜戦争前後の政治に関与した。敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、東京裁判において終身刑となったが後に仮釈放された。父の木戸孝正は、明治の元勲である木戸孝允の妹治子と長州藩士来原良蔵の長男である。学習院高等科では原田熊雄、織田信恒などと同級だった。近衛文麿は1学年下にあたる。「学習院高等科から出た者は、東京の大学が満員だから全部京都大学へ行けというような話」があり、木戸、原田、織田は京都帝国大学法科大学政治学科に入学し、河上肇に私淑した。同校卒業後は農商務省へ入省した。農商務省が農林省と商工省に分割の際は、商工省に属することとなる。

・上記注解3,4,5は「wikipedia」 1917/5/20 より部分転載