第四章

はてさて安倍総理大臣が真珠湾での戦没者の慰霊祭に出席したからというわけではありませんが(微笑)、さらにハワイ作戦立案について考証します。日本海軍の航空機によるハワイ空襲の構想は既にセンピル教育団について述べたように、巷間言われているよりも思いの外早いのです。
ここで再度日本海軍の真珠湾奇襲作戦の立案に一端戻りますが、例えば昭和11年(1936年)には海軍大学校が『※1.対米作戦用兵に関する研究』と題する文書にまとめています。その内容には「開戦前、敵主要艦艇、特に航空母艦ハワイに在泊する場合は敵の不意に乗じ航空機に依る急襲を以て開戦するの着意あるを要す」とあります。つまり海軍部内では、真珠湾奇襲攻撃の五年も前から空母艦載機によるハワイへの奇襲攻撃が組織的に研究されていたことになるのです。いや、文書に纏められたのが開戦五年前ですから、もっと以前から研究されていたことになります。
センピルが帰国して後に、日本海軍は彼からレクチャーを受けた全く新しい、航空機に依る島嶼に築かれた港湾や軍港への攻撃という概念の研究を脈々と続けていたのです。しかも後にアメリカから「騙し討ち」と非難されることになった戦線布告前の奇襲も公式に検討されていたことになります。やはり日本の近現代史は何かがオカシクて何処かがヘンなのです。まるで民進党のように(笑)・・・・・・・。
そもそも従来この作戦は戦史叢書によれば大西・源田で具体的な作戦が立案されたことになっていますが、本当は当時の連合艦隊の福留参謀長と黒島先任参謀によって立案されたものです。この点『※2.戦史叢書』は真実を書いていないのです。山本五十六連合艦隊司令長官は昭和16年(1941年)1月7日に及川古志朗海軍大臣に手紙を送っています。しかしこの手紙は東京裁判には未提出であり及川もその死まで存在を隠しました。この手紙を発見したのは、あの映画『トラ・トラ・トラ』の原作者であるゴードン・プランゲ(当時GHQ戦史課長)とその協力者であった千早正隆(終戦時の連合艦隊参謀、戦後はGHQ戦史室調査員)でした。千早正隆はその著作、『日本海軍の戦略発想』(中公文庫)の中で、「色々な状況を総合して、その手紙の存在を突き止めた」と書いているが、「及川には惚けられ、黒島亀人先任参謀と渡辺安治戦務参謀、そして藤井茂渉外参謀に尋ねたものの否定された」とのことです。この手紙の内容は、山本の及川に宛てた「戦備に関する意見」というもので、1「戦備」、2「訓練」、3「作戦方針」、4「開戦劈頭に於いて採るべき作戦計画」等から構成された内容でした。大まかに言えばこの手紙の内容はその11ヵ月後に実施されたハワイ作戦とほぼ同一のものです。違うのは使用する空母の数が四隻から実施段階では六隻になったことでしょうか。この手紙のなかで山本は対米・英戦を実施するに当たって、軍艦と航空機の数を倍にするように及川に要求しているのですが・・・・・・。
つまり、どちらにしろ、この段階で既にハワイ作戦の具体的な骨子は完成されていたことになります。要するにこの内容は海軍省と軍令部の現役トップには伝えられていたと見るのが妥当です。むしろ山本は及川に口頭でも要求している筈です。つまり連合艦隊の司令部にいた黒島、渡辺、藤井にはハワイ作戦の骨子が出来上がっていた時期を隠したい理由があったわけです。なぜかと言えば山本がこのような早い時期にハワイ作戦を準備し、要路に働きかけていたことを隠そうとしたのです。これは東京裁判における結論的審判である「海軍善玉・陸軍悪玉論」を戦後定着させたかったある“人物”が存在した(海軍軍人ではない)というところが真相でしょうか。それに協力したのは利害が一致したとはいえ、姑息な日本海軍らしい仕業ではありますが・・・・・・。
ところで、このハワイ作戦自体は先ほど述べたように当時の連合艦隊参謀長の福留繁に策案が命じられて、艦上攻撃機・艦上爆撃機の演習は鹿児島の錦江湾で既に昭和15年11月には開始されていたのです。しかしながら山本が真珠湾攻撃の着想を得たのは更に遡ると福留繁は自らの著作で言っているのです。それは以下のとおりです。「しかし此の頃(1940年4月)には、まだ誰一人として真珠湾攻撃を考えるようなものはなかった。これを着想したのは実に山本長官その人であった。1940年(昭和15年)度前期訓練において航空戦訓練が着々成果を収め、特に航空雷撃が決戦戦法の中心をなすことの核心を得たこと(これは1941年12月10日のマレー沖海戦でイギリス海軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈したことで納得できる)を長官、参謀長の私との両人にて喜び合ったさい「ハワイの航空攻撃はできないものだろうか」という事を山本長官が独語ともなく私に語った(山本は実際はもっと前から考えていたのだが)。「航空攻撃をやれる位なら全艦隊がハワイ近海に押し出した全力決戦がいいでしょう」と私はいった。しかし山本長官もまだ単なるヒントを得たに過ぎない程度であったようだ。前後六年間軍令部に勤務して作戦研究に没頭して来た私(それならば尚更の事、海軍大学が纏めた『対米作戦用兵に関する研究』を知らない筈がない)としては、航空機によるハワイ攻撃などてんで問題としておらず、かかる遠隔の地に対する攻撃は、ひたすら潜水艦による方策以外にあるまいと考えていたのであった」(福留繁 『史観・真珠湾攻撃』)・・・・・・。
この福留の話は嘘である。福留は海軍大学校がまとめた『対米作戦用兵に関する研究』を知らなかったとでもいうのだろうか、或いは見たこともないとでもいうのだろうか。そんなことはあり得ません。そのような人物にハワイ作戦の策案を山本が指示するわけがありません。つまり福留の『史観・真珠湾攻撃』なる本は戦後数多く出版された偽情報本の一つであると小生は断じます。そして、やはりハワイ作戦は山本一人の発案ということにしているのですが、この類の本(戦後出版された、歴史を歪曲・捏造するための本)は数多くあるのです。いちいち挙げると切りがないので何れかの機会に実例を挙げてお話ししたいと思いますが、今回はこれを指示した人物について簡単に述べてみます。それは松本治一郎という人物です。一義的には“海軍善玉・陸軍悪玉論”を広げるためなのですが、その本質は米内光政の本当の正体を完全に隠蔽するためだったのです。そういえば米内光政はなぜか戦犯指定を免れていますがこれには裏があるのです。これも、いづれかの機会ということになりますが・・・・・・(苦笑)。
ところで松本治一郎は阿川弘之(コミンテルンである)とも懇意でしたが、司馬遼太郎とも親密な仲でした。あの『ノモンハン』を書いた五味川純平とも良好な仲でした。作家、モノ書きの類とはとにかく繋がりが広くて深い人物なのですが、実際のところ作家や物書きにはコミンテルンや共産主義者が多かったのです。因みに、あの松本清張もコミンテルンでした。当然作家や物書き以外でも官僚や学者(例えば※3.安倍源基※4.牛場友彦※5.岡義武等々その他多数)、勿論これらの中にはコミンテルンや共産主義者がゴロゴロいるのですが・・・・・。
因みに『戦史叢書』の歪曲・捏造も松本の指示による戦史編纂官の仕業なのです。さて話がまた脱線したので元に戻します(笑)。実のところ真珠湾の超具体的な奇襲作戦のプランのモデルはイギリス海軍にありました。それは「ジャッジメント作戦」というのですが……。(以下次回に続く)

注 解(これらの注解は主に一般的な定説・通説に基づいています。)

『※1.対米作戦用兵に関する研究』
参考資料(1)p165に「海軍大学校は常に軍令部総長の指示を受け,海軍の作戦用兵に関する研究調査を続けていた。昭和十一年十一月付の,当時の研究の一端を纏めた「対米作戦用兵に関する研究」という資料が残存している。」と記述があり,続いて原文が掲載されている。参考資料(2)には「開戦の初動をハワイ方面にある米艦隊主力撃破に決めたことは,すでに昭和十一年、海軍大学校研究部の「対米作戦の研究」に明記されている。」との記述がある。
・参考資料
(1)『海軍軍戦備 1 昭和16年11月まで』防衛庁防衛研修所戦史室/著 朝雲新聞社 1969 (p165~174:海軍大学校における対米作戦の研究)
(2)『海軍 第4巻 太平洋戦争への道』「海軍」編集委員会/編 誠文図書 1981 (p228:太平洋戦争初期作戦のための計画練り直し)

・上記は「レファレンス共同データベース、レファレンス事例」より転載

『※2.戦史叢書』
『戦史叢書』(せんしそうしょ、英題Senshi sôsho)とは防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)によって1966年(昭和41年)から1980年(昭和55年)にかけて編纂され、朝雲新聞社(あさぐもしんぶんしゃ)より刊行された公刊戦史である。A5版、各巻500-600頁。
『※3.安倍源基』
あべ げんき、{明治27年(1894年)2月14日 - 平成元年(1989年)10月6日}は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。警視庁特別高等警察部長、警視総監、内務大臣を歴任した。山口中学、徳山中学(現山口県立徳山高校)、第六高等学校を経て、1920年、東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省。1932年、警視庁において初代特別高等警察部長となり、赤色ギャング事件や日本共産党査問リンチ事件を通じて「赤狩り安倍」の名を轟かせた。安倍が特高部長であった1933年には、19人が特高警察の過酷な取調べで死亡しており(19人は戦前で最多)、その中にはプロレタリア文学作家の小林多喜二も含まれている。1936年の二・二六事件に際しては、特高部長として戒厳会議の構成メンバーであった。その後、内務省保安課長、同警保局長、警視総監、企画院総裁(心得)を歴任した。
『※4.牛場友彦』
うしば ともひこ、(1901年12月16日 - 1993年1月12日)は日本の官僚、実業家。近衛文麿の側近として内閣総理大臣秘書官を務め、朝飯会を発足させた。戦後、日本輸出入銀行幹事、アラスカパルプ副社長、日本不動産銀行顧問を務める。京都府出身。東京帝国大学、オックスフォード大学卒業。1936年にカリフォルニアのヨセミテで開催された太平洋問題調査会に、西園寺公一の通訳として参加。近衛文麿の側近時代、尾崎秀実を近衛文麿に紹介し、彼が内閣嘱託となるきっかけをつくった。また、岸道三とともに近衛内閣の「朝食会(朝飯会)」を組織した。戦後、松方三郎や松本重治とともに日本経済復興協会の理事となり、日本輸出入銀行幹事、日本不動産銀行顧問を務める。実弟は外務事務次官、駐米大使、特命担当大臣(福田赳夫政権)を務めた牛場信彦、および慶應義塾大学医学部教授をつとめた牛場大蔵。ちなみに彼らは牛場4兄弟と呼ばれ、秀才の誉れが高かった。
『※5.岡義武』
おか よしたけ、(1902年10月21日 - 1990年10月5日)は、日本の政治学者、東京大学名誉教授。専門は、政治史、日本政治史。東京市麹町生まれ。父は大阪毎日新聞社副社長・会長、農商務省商工局長(兼・臨時産業調査局第3・第4部長)を務めた岡實。旧制第一中学、第一高等学校文科乙類を経て東京帝国大学に入学。1926年東京帝国大学法学部政治学科卒業。卒業と同時に法学部助手に採用される。同期採用の矢部貞治が政治学講座の助手として採用されたことから政治史研究に転じ、助手時代は吉野作造に師事する。1928年助教授に任官、1939年から教授。吉野の政治史講座を継承し、1935年より従来設けられていたヨーロッパ政治史の講座に加え、日本政治史の講義をはじめて設けた。1936年から二年間欧州を歴訪し、当時の日記は『岡義武ロンドン日記』として刊行されている。戦後も東京大学教授を務め、1955年から1957年までは法学部長を務める。1963年定年退職し、東京大学名誉教授となる。また、1949年の学習院大学の文政学部政治学科設置に協力し、1950年から1955年まで同兼任教授を務めた。また、主な著作に『近衛文麿―「運命」の政治家』(岩波新書, 1972年/岩波書店「評伝選」, 1994年)がある。

果たして、これらの人物の本当の姿は如何に・・・・・?

・上記2,3,4,5は「wikipedia」 1917.1.13より部分転載、一部加筆