“ある男と女のお噺”その弐

「この歴史よもやま裏話」、今回で早くも3回目になりますが、前回はミンストレル・トマスさんの音楽ネタのお話で・・・、さすがに西洋のお方ですナ、話題の選択がチョッと洒落ておりましたですネ。
こちらの落語家、吐魔素亭模唖おじさんは相変わらずマイペースで、今回も旧帝国海軍軍人さんのお話で高座をあい務めましてござりまする。(とは言っても所詮はコスプレトマスおじさんの一人二役ですから、なんとも器用なおっさんですナ~)。では、はじまり、はじまり~

毎度、馬鹿馬鹿しくもクダラン小噺を申し上げるといたしやす。そうそう、その前に前回お話した山本五十六について少しばかりオマケでお話させて頂くとですね、な~に他ならぬ山本の愛人だった河合千代子のことなんでございますが、彼女は当初は深川の芸者だったんでございますよ。
それがどうしたわけか新橋に移ってきたわけなんですが、これにはある理由があったと思われます。もちろん、誰かさんの手引きがあったんでしょうねぇ。つまり、深川で米内光政が芸者を見繕った中で河合千代子に目を付けたと思ってくださいまし。そしてその後、新橋に移ってきた河合千代子と山本が新橋の料亭を装ったある※芸者置屋で出会ったということになりますが、これはもちろん米内にとっては計算ずくのことだったのでございましょう、ハイ。当然米内が河合千代子に予め含んでおいて、山本にアタックをかけるように言い含めていたんですな。ちなみに河合千代子はコミンテルンではございませんが・・・。
例えば、「あの山本は近い将来には海軍を背負って立つ人物になる男である、それは俺が保証するよ」な~んて言ってたんじゃないんでしょうか(事実、及川の海軍大臣も山本の海軍次官も裏で画策をした結果の米内による肝いりの人事である、ついでにいえば野村吉三郎の駐米大使任命も米内の思惑によっての裏での画策による人事であり、当時の海軍における米内の影響力と権勢が解ろうというものですがモチロン予備役に入ってもその影響力を陰で密かに行使していたのです。なにしろバックが超大物ですからね)、そして“旦那を作るならその様な将来を約束されている有能な男を選ばないといかんぞ”とかなんとか言っちゃって河合千代子を徐々にその気にさせていったんでしょうなぁ。
そして“金の事は心配するな、俺が山本にいいスポンサーを付けてやるから”と言ったかどうかまでは定かではありませんが(笑)、実際のところ芸者を身請けするにはお金が必要なんでございますよ、それも大金が・・・・・。
しかしでございます、その当時山本には妻子もおり、それだけの蓄えがあったのかどうか非常に疑問でございますね。しかも身請けした後の河合千代子の生活の面倒の問題もございますですな。やっぱり世の中、何をやるにも先立つものは銭、ゼニ、ゼニ、な~んでございますね。つまりでございます、こういう場合はスポンサーが自ずと必要になってくるのでございます。
そこで米内はんが山本にスポンサーを紹介するということに相なるわけでござんすよ。ところが、ギッチョンチョンなのでございますねぇ、そもそも米内はん、自らもスポンサーが存在する立場なものでございますからスポンサーの紹介をある人物に頼んだと思っておくんなさいまし。となれば、アリャリャ~、ほ~れ、なんとなく全てが上手くいきそうなフィ~リングになってくるんとちゃいますか?
その後、件の京都での米内はんを仲に建てた三人による会食となり、そしてその結果米内はんの目論見どうりに相成ったというわけでござんすよ。コレデ、めでたし、めでたしと言っていいもんなんでしょうかねぇ。
とにもかくにも、これで一件落着とはまいりませんが、それにしても前回のお話とほぼ辻褄が合ってきたと感じるのは私だけでしょうかね。クックックック、ちきしょうメ、上手くやりゃ~がって、コノッ!な~んちゃって(一人で抱腹絶倒)。
ところで、そのスポンサーはいったい誰なのさ?と、ついつい聞きたくなるのは人情というもの、そのお気持ちはヨ~ックわかるのでございますが、ま~だ内緒だもんね。イ~ッヒッヒッヒ(今度は思わせ振り笑い)。(すると突然我に返って)オット危うく忘れるところじゃったわい、以上ツラツラ述べてきたことは本日の主題じゃ~な~いもんネ、今回のテーマは新たな魑魅魍魎がもう一匹登場するという大事な大事な、それこそチョー重要なお話なんだもんね。

今回のゲスト 及川古志朗(おいかわこしろう)

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1883年(明治16年)2月8日 - 1958年(昭和33年)5月9日)は、日本の海軍軍人。新潟県古志郡出身。海兵31期。海軍大学校13期。最終階級は海軍大将。第2次近衛内閣・第3次近衛内閣で海軍大臣。第18代軍令部総長。新潟県古志郡で医師・及川良吾の子として生まれる。生誕地から名前の「古志郎」と命名された。旧制岩手県立盛岡中学校。及川は野村胡堂や金田一京助、田子一民ら同窓生に勧められるままに、長詩・短歌を盛んに寄稿していた。1900年(明治33年)12月、海軍兵学校31期に入学。同期生に加藤隆義、長谷川清。及川が海兵を志願したのは、日露戦必至の情勢に加え、中学の先輩である米内光政、八角三郎がすでに海兵に進んでいた影響もあったという。1904年(明治37年)9月10日海軍少尉進級。防護巡洋艦「千代田」乗組で日露戦争に参加。1938年(昭和13年)4月25日、日中戦争の勃発に伴い第三艦隊が改めて編成され、及川は同日、支那方面艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官に就任。1939年(昭和14年)11月15日、海軍大将進級。

その人こそ及川の古志朗チャンいうて海軍大臣をお勤めになったお人でござんすよ。(また元のシャベクリ方に戻して)この及川はん、昭和11年に航空本部長、13年4月にシナ方面艦隊長官兼第三艦隊長官、14年11月には海軍大将、15年9月にはとうとう海軍大臣と、対米・英戦を前にしてトントン拍子で出世して、海軍畑の頂点にまで昇りつめたお人でございます、ハイ。モチロン米内はんと、この及川はんは懇ろなお関係でございました。そんで、なにでございます、この及川はん、新橋のとある料亭の体をよそおった芸者置屋でハニー・トラップに引っかかっておったんですな。
そうそう、なんでもお店での源氏名は“卑弥呼”と称しましてソ連側のコード・ネームは「クイーン」と申すそうでございます、ハイ。ついでに申しあげますと、例の米内はんはこの頃、今日は深川、明日は新橋と花街を股にかけて夜な夜な徘徊しておったとか(苦笑)、ホンニ“お好きなお方”で御座います様で(呆れ笑)。ホラッ、耳を澄ますと何やら芸者衆の次の様な艶っぽくも黄色い声が聞こえてくるような気がするじゃあ~りませんか、「イヤ~ン、古志朗ちゃんったら、バッカ~ン、モ~(鼻にかかったネコナデ声で)」・・・・・・。それではお次が宜しいようで・・・・・・・・・。

ふ~ん、この頃の軍人さんはなにやらハニー・トラップに掛かりまくりでんナ~。それにしても鼻の下が長すぎるんじゃないですかネ~。そういえば及川古志朗さん、口髭で誤魔化してますが、結構鼻の下がほんとに長いですナ。では、また次回まで首を長~くしてお待ちください。チャンチャン♪

注 解(これらの注解は主に一般的な定説・通説に基づいています。)

『※芸者置屋』
置屋(おきや)は、芸者や遊女を抱えている家のことで、料亭・待合・茶屋などの客の求めに応じて芸者や遊女を差し向ける。遊女屋とも。芸者置屋・芸者屋などとも呼ばれ、これに料理を用意する料理屋(料理店)と場所を貸す待合茶屋や貸座敷を加えて三業といい、通常同一地区内でそれら三業が組織を作り、それを三業組合と言う。こうした芸者遊びのできる場所を三業地(花街、遊郭、色街など)とも言う。時代により、料理屋や待合茶屋を兼業する置屋も出てくるようになり、京都島原の「輪違屋」や大阪南地の「大和屋」など、茶屋として名を馳せた店も、ももともとは置屋だった。また、花柳界がそれほど大きくない地方では、三業の分化は明確でなく、兼業も多かった。芸者置屋だけでなく、仲居置屋や酌人置屋などもあり、昭和2年の資料では、芸者置屋業を単に「酌婦のみを置くもの」としている。

・上記は「wikipedia」 1917.1.18より部分転載