大江戸裏瓦版 第一版

“さあ~ 大変だ、大変だ!こんなお話、他じゃ滅多に聞けませんよ~、ここで素通りは一生の損というものでっせ、さあ、さあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい”・・・。と、ばかりに何やら景気のいい口上でお初にご登場いたしました「瓦版売りの吐魔素屋」でございます。オヤッ! 隣に居ますのは「百眼(ひゃくまなこ)の秀」さんじゃございませんかネ・・・・、こんな所にもご見参とは、いやはや、よっぽど野次馬根性が据わっておりますですナ~。あッ そうか!百眼の秀さん、もしかすると吐魔素屋さんのビジネスの助っ人ですかナ。二人掛け合いの瓦版売りも珍しいですネ。では、吐魔素屋の記念すべき第一版をご清聴のうえお買い求めくだされまし(もっともウェブサイトですから購入は無理か)。

(瓦版売り)吐魔素屋;

オイ、百眼の秀よ、この商売は二人のコンビネーションが肝心じゃけん、心して頼むぞよ。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

へい、合点でござる。まかしておくんなさい。

吐魔素屋;

ヨッシャ~、行くぞなもし。本日の号外は、なにを隠そう、この人物についてじゃよ。サ~、皆の衆、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい、聞いてらっしゃい、この男があの坂本竜馬暗殺の黒幕じゃ~。

百眼の秀;

ひえ~っ、とうとう出ましたね、こりゃ~驚きだ~。

吐魔素屋;

(ここでトーンを落として淡々と語り出す)この人物はあの司馬遼太郎が二流の志士とレッテルを貼った男じゃよ。

百眼の秀;

な~るほど、だから世間が注目しなかったわけか。

吐魔素屋;

ウン、確かにそれも理由の一つではあるわい。だがそれよりも、ここでハッキリしておくことがあるのじゃ。

百眼の秀;

それは一体なによ?

吐魔素屋;

それはじゃな、坂崎紫瀾の著作である『汗血千里の駒』じゃよ。これを書かせたのは田中光顕なんじゃよ。そもそもこの田中と坂崎は親分・子分の仲なのじゃ。

百眼の秀;

ふ~ん、そうだったんだ。

吐魔素屋;

つまりじゃな、田中光顕が自分の足跡を消すために坂崎に書かせたものなんじゃ。

百眼の秀;

しかしなんでまた?

吐魔素屋;

本当の歴史の裏に自らを潜り込ませて、自分の真の姿を隠すためであり、歴史から自らの所業を消すためなのじゃよ。それには坂本竜馬が一番都合がよかったのじゃ。

百眼の秀;

ってゆうことは、坂本竜馬について現在まで語られてきたことは、嘘が多いということかな。

今回のゲスト 田中光顕のプロフィール

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田中光顕

田中 光顕(たなか みつあき、1843年11月16日(天保14年閏9月25日) - 1939年(昭和14年)3月28日)は、日本の武士・土佐藩家老深尾氏家臣、官僚、政治家。栄典は従一位勲一等伯爵。初名は浜田辰弥。通称を顕助、号は青山。フリーカメラマンの田中光常は孫。

吐魔素屋;

そのとうりじゃよ、ソモソモ、竜馬に関しては未だに謎が多く、また資料が少ないのが実情で、それだけに創作の余地が大いにあるってわけじゃ。田中光顕が自らの存在やその足跡を隠すためには非常に都合の良い人物が坂本竜馬なんじゃな。ようするに小説でブームを作って虚構の歴史を固定化するってことよ、坂崎紫瀾はその先鋒だったわけじゃ。戦後では司馬遼太郎がそれに当たるのじゃが、つまり司馬の『竜馬が行く』は、実は二番煎じっちゅうことよ。

百眼の秀;

な~んだ、そうだったのか、しかし日本人てのはホントに騙されやすい人種だね、いつもコロッとヤラレルもんね。もっとも今の時代は昔と違って本ではなくテレビ番組ってわけか。

吐魔素屋;

いや、今でも本の影響は大きいし映画もよく使われておるわい。それも、何度も何度も、ホンに懲りない人種じゃよ、もういい加減にどうにかならんのかいな(呆れ笑)。

百眼の秀;

そうはいっても、あれだけクドク、シツコク、ネチッコク、コレデモカ?ってやられると大概の一般大衆も脳味噌の中にシッカリと刷り込まれちまって、こればっかりはオイラにはどうすることもできないっぺよ。ところで、どの部分が嘘なのかよ、まさか全部が嘘ってわけじゃないだろうね?

吐魔素屋;

肝心なことは殆どが嘘じゃよ。

百眼の秀;

げ~っ、それって本当かよ?

吐魔素屋;

例えばじゃのぅ、坂本竜馬が戦争が起きないように西郷隆盛や長州と交渉したな~んてのは大嘘もいいとこじゃよ。あ奴は戦争を誰よりも望んでいたんじゃよ、なにせ戦争はガッポリ儲かるからにゃ~。つまり田中光顕と同じってことじゃ。大体が坂本は本来はいわゆる死の商人じゃろうて。だが日本では、今や坂本竜馬は一種の利権であり、竜馬で商売し、竜馬で食っている人間は結構多いからのぅ。ヨースルニ、つまるところ、田中光顕の所業を隠すために坂本の事は悪くいわないのじゃよ、モットモこっちの方が悪く言わない理由の本質なのじゃが。坂崎も司馬もキッチリとこの不文律を踏襲しておるわいな。

百眼の秀;

な~んか巷間云われていることと全く違うみたいでござんすね。

吐魔素屋;

フン、そのとうりじゃよ、田中光顕が著した『維新夜話』や『維新風雲回顧録』やその他等々も田中光顕の都合の良い歴史にするために出版されたのであるぞよ。

百眼の秀;

なんでそこまでするのよ。

吐魔素屋;

それはこういう輩の歴史の歪曲・捏造についての執念には常人には理解し難いものがあるんじゃよ。良かれ悪しかれ歴史上の大人物には歴史の歪曲・捏造には驚くべき執念で取り組む奴が結構多いみたいじゃな。つまり自分の死後の評価をエラク気にするのじゃよ。モットモ自分が後世の歴史上で目立たないように歪曲する人物もおるわいな。サシズメこの田中光顕はその口の人物であるぞよ。そうすれば自らの悪行も表には出てこない理屈じゃよ。

百眼の秀;

ふ~ん、その心境はオイラのような天下の凡人にはよくわからんねぇ~。

吐魔素屋;

フム、あまり難しく考えることもあるまいよ、マッお前さんのオツムでは考えたところで時間の無駄というものじゃけん(薄笑い)。

百眼の秀;

すぐそうやってオレを見下すんだから、相変わらず嫌な性格だよな、ところで、とりあえず、この人物はどういう人間なんだい?

吐魔素屋;

一言でいえば、田中角栄の様なタイプの人間じゃな、つまり思想などという高尚なものは持ち合わせておらんのじゃよ。ただし、思想・宗教は徹底的に利用しおったわい。ヨースルニじゃな、金と権力が全ての人物なのじゃ。つまり“金権主義者”じゃな、ウン。だがしかし、田中角栄とはそのスケールが全然違うわい、田中角栄が“闇将軍”なら田中光顕はさしずめ“闇皇帝”といったところじゃろうて。

百眼の秀;

へ~、そんなことなんで解るわけ?

吐魔素屋;

そりゃ~先だって閻魔大王に御呼ばれして、地獄界を訪問した時にスタさん(スターリン)にシッカリと聞いたもんね。

百眼の秀;

げ~っ、この田中光顕とスタさんは知り合いだったんだ、ウソ~、そんな馬鹿な事あるんかよ~。

吐魔素屋;

結構な仲だったそうじゃよ、フッフッフッフ、ホレッ「事実は小説より奇なり」というじゃろうが。それにじゃな日本の近現代史においては、この男、つまり田中光顕抜きでは日本の近現代史の真実には全く辿り着くことはできんぜよ。そして、結局のところ出自・思想・宗教・フリーメイスンについてある程度の究明をせんと日本、いや世界史の真実には辿りつけんのじゃよ。モチロン人物についての追究は言わずもがなだがな。例えばスタさん(スターリン)についての解剖などは日本だけではなくて、世界の近現代史の真実を解明するに当たっての必須事項の一つでもあるのじゃが・・・・・・。

百眼の秀;

いいかげん、その奥歯にものの挟まったような言い方は止めて何かサワリでいいから話してくんねぇ~かな~。

吐魔素屋;

お~よしよし、それでは今回は一つだけ話して聞かせようぞ、あの安政五年(1858年)に始まった例の※安政の大獄じゃが、これを画策した複数の人物の中の中心人物であり、日本の近現代史の黒幕中の黒幕じゃよ。

百眼の秀;

え~っ、そんなわけないよ、あれって大老の井伊直弼がオッパジメたんじゃねぇ~のかよ?瓦版屋

吐魔素屋;

おいおい、あれっ、もう行っちまったぜ、全くいつもながら忙しない親爺だよな。 (この時ばかりは、あとに残された聴衆も驚きのあまり、アッケにとられて口をポカ~ンと開けながら佇むばかりだったのでした)

あれッ、これって瓦版の辻売り商売の舞台版だったんでんナ~。トマスおじさんのコスプレ・ステージもここまでくれば最早パラノイア(偏執狂)的ですらありますですナ~。 しかし、これがビジネスだとすると結構複雑な商売ではありますネ。でも、瓦版を売りながら入場料も取るなんて、ある意味面白いビジネスモデルではありますナ。どちらにしてもウェブサイトの仮想劇場ですからあまり商売と言う意味では関係ないのですが・・・・・、では次回、いや次版の口上をお楽しみにしてくだしゃんせ。

注 解(これらの注解は主に一般的な定説・通説に基づいています。)

※安政の大獄
安政の大獄(あんせいのたいごく)は、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて、江戸幕府が行なった弾圧である。当時は「飯泉喜内初筆一件」または「戊午の大獄(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)」とも呼ばれていた。江戸幕府の大老井伊直弼や老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。形式上は第13代将軍・徳川家定が台命(将軍の命令)を発して全ての処罰を行なったことになっているが、実際には大老・井伊直弼が全ての命令を発した(家定の台命として行なわれたのは家定死去の直前である7月5日、徳川慶勝や松平慶永、徳川斉昭・慶篤と一橋慶喜に対する隠居謹慎命令(慶篤のみは登城停止と謹慎)だけであり、大獄の始まる初期のわずかな期間だけである。

・上記注解は「wikipedia」 1917.2.4 より部分転載