大江戸裏瓦版 第二版

“さあ~ 大変だ、大変だ!こんなお話、他じゃ滅多に聞けませんよ~、ここで素通りは一生の損というものでっせ、さあ、さあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい”・・・。と、ばかりに再び景気のいい口上でご登場いたしやした「瓦版売りの吐魔素屋」ですネ。
今回も“サクラ”・・・いやッ、違った“ビジネスパートナー”の百眼(ひゃくまなこ)の秀さんを伴ってのダイアローグ(対話劇)の始まりでございます。
一説によると瓦版売りは一般客を装ったいわゆる“サクラ”を配して、その内容を丁々発止とやり合い、聴衆の興味を引いて商売に繋げたといいますが、まさにその通りの展開ですナ。しかしながら如何せん昔の事ゆえ定かではございません。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

ねぇねぇ、吐魔素屋のおっさん、前回で言ってた安政の大獄を画策した複数の人物は誰なのさ。

吐魔素屋;

それはじゃな、これの中心人物は複数おって、あの土佐藩の中岡慎太郎率いる※1陸援隊の副長だった田中光顕と公家の※2岩倉具視じゃよ。それにこの事件の裏については、山之内容堂も知っておったしな。それに田中智学も知っておったわい。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

ええ~っ、まさか、嘘でしょう?

吐魔素屋;

そして桜田門外の変の中心人物も山之内容堂であるぞよ。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

げ~っ、そんな馬鹿な!

吐魔素屋;

まっ、信じる信じないはお前さんの勝手じゃがな。桜田門外の変などは山之内の指示で田中光顕が水戸藩の浪士や他藩の浪士を使って画策したものじゃが、もう一人絡んでおる者がいるわい。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

それって誰なのさ?

吐魔素屋;

それはじゃな、田中智学っちゅう人物じゃよ。この人物は田中光顕と共に長州藩や薩摩藩や水戸藩に深く食い込んでおったんじゃが、そもそも山之内容堂とは師弟関係であるぞよ、モチロン師匠は田中智学の方じゃよ。そして山之内は隠れキリスト教徒でもある。プロテスタントじゃよ。そうそう、山之内はあのジャーディン=マセソン社のケズィック・ファミリーのジョン・ケズィックとは昵懇の仲なんじゃよ。そんでじゃな、桜田門外の変を実行するに当たってはフリーメイスンの横浜ロッジから資金が出ておるのじゃよ。そういえば、ジャーディン=マセソン社の支店も確か横浜だったかな、ところで、ついでに言えば田中智学はフリーメイスンの協力者じゃよ。当然メイスンから資金を仰山貰っていたわいな。イギリス、アメリカ、そしてロシアからもな。モットモ田中光顕はメイスンではないがのぅ。しかしメイスンとの繋がりは深いものがあったんよ、モチロンこの人物もメイスンから資金援助を受けていたのは間違いのないところじゃろうて。

今回のゲスト 田中 智学(たなかちがく)
目鱗新報にも再登場します。

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{1861年12月14日(文久元年11月13日) - 1939年11月17日}、第二次世界大戦前の日本の宗教家。本名は巴之助。多田玄龍・凛子の三男として江戸で生まれ、10歳で日蓮宗の宗門に入り智学と称したと伝えられているが・・・。1872年(明治5年)から田中姓を称している。その後、宗学に疑問を持って還俗し、宗門改革を目指して1880年(明治13年)に横浜で蓮華会を設立したと云われているが・・・。4年後の1884年(明治17年)に活動拠点を東京へ移し立正安国会と改称、1914年(大正3年)には諸団体を統合して国柱会を結成した。日蓮主義運動を展開し、日本国体学を創始、推進し、高山樗牛・姉崎正治らの支持を得た。1923年(大正12年)11月3日、日蓮主義と国体主義による社会運動を行うことを目的として立憲養正會を創設し総裁となった。智学は「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に初めて着眼し、「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であり、その後の結果が「八紘一宇」であると、「掩八紘而為宇」から造語した。八紘一宇とは日本建国の主義である「道義的世界統一」を意味する。 大正2年3月11日に機関紙、国柱新聞「神武天皇の建国」にて言及。
八紘一宇という言葉は、戦後、軍国主義のスローガンであったかのように言われているが、造語した智学は戦争を批判し死刑廃止も訴えている。さて、この人物の本当の正体は如何に・・・・。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

え~っ、ほんとかよ、全てが初耳だぜ。

吐魔素屋;

日本の近現代史は幕末どころか中世から少しばかりおかしいのじゃよ。特に幕末以降は、明治維新以後に、裏で計画的かつ組織的に改竄されておるわいな。ワシは天国でアーネスト・サトーから、そして地獄界ではあのトーマス・グラバーから聞いたもんね。ウッフッフッフ。オウ、そうじゃった、グラバーもフリーメイスンであるぞよ。アーネスト・サトーはメイスンではないものの、メイスンの影響は強く受けていた様じゃ な。
マアいずれアーネスト・サトーやトーマス・グラバーについても近いうちに語る時がくるじゃろうて。なにせ両方とも英国人じゃからのぅ、この2人についてはワシに任せなさいっちゅうもんじゃよ。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

え~っ、それにしてもこの話って本当かよ、信じがたい話だよな?俺も前から日本の歴史はかなり怪しいとは思っていたけどね、それにしてもビックリこいたぜ。

吐魔素屋;

マア、お前さん達日本人は、いつまでも騙されていればいいんじゃよ。そもそもワシの知ったことではないしのぅ。ワシの場合、英国さえ安泰ならいいんだもんね。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

オイオイ、ちょっと待ってくれよ、随分身勝手で薄情な言い方するもんだよな。

吐魔素屋;

そもそもじゃな、この一件は、徳川十三代将軍 の家定暗殺と大いに関係あるんじゃよ。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

うへ~っ、※3徳川家定は病死じゃねぇ~のかよ。

吐魔素屋;

ウッフッフッフッフ(意味深な笑い)、日本の歴史ではそうなっておるようじゃのぅ。実はな、家定は毒殺じゃよ。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

ゲーッ、それにしても一体全体日本の歴史の真相はどうなってるんだい。

吐魔素屋;

じゃからいっておるじゃろうが、田中光顕という人物を抜きにしては日本の歴史の真実の解明はできんのじゃよ。なにせこの田中光顕は後々には上原勇作や米内光政とも繋がっておるし、モチロン近衛文麿や松本治一郎ともな。そうそう、あのスタさ ん(スターリン)ともな。まだまだ仰山おるがとりあえずはこんなところでいいじゃろうて。話が長くなるでのぅ。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

話が幕末以降、随分後々まで飛びますねぇ、しかも広く深く拡がりそうだぜ。

吐魔素屋;

そのとうりじゃが、切りがなくなりそうじゃから今回はこのあたりでやめとこうかいのぅ。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

そんな殺生な!ほんの触りしか聞いてないぜ。

吐魔素屋;

ほんじゃあ、もう一つだけ、教えて進ぜようかいな。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

一つといわずに二つでも三つでも教えてくれよ。

吐魔素屋;

だ~めじゃもんね、一つだけにせんと、もう次の演目に出演するのに時間がないんじゃよ。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

この頃、忙しいのはわかるけどよ、なにせ最近は“トマス七変化”だもんね。正確に言えば『歴史よもやま裏話』の二人キャラを入れると八変化になるからな。

吐魔素屋;

そうなんじゃよ、演じてるワシ自身が時々頭がこんがらがってくるわい(苦笑)。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

そうかもな、ところで話の続きをやってくれよ。

吐魔素屋;

おう、そじゃった、うっかり忘れるところじゃったわい。ほんじゃ~いくぞなもし、じつはな、井伊直弼の暗殺、つまり桜田門外の変については事前に※4勝海舟と岩倉具視は知っておったんよ。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

げ~っ、よりによってトンデモナイ嘘こくなよ、このホラ吹き親爺!

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田中光顕(イラストは若年時)

{1843年11月16日(天保14年閏9月25日) - 1939年(昭和14年)3月28日}、日本の武士・土佐藩家老深尾氏家臣、官僚、政治家。栄典は従一位勲一等伯爵。初名は浜田辰弥。通称を顕助、号は青山。フリーカメラマンの田中光常は孫。

吐魔素屋;

あ~っはっはっは、実のところ勝海舟は田中光顕が幕府に送り込んだスパイなんじゃよ。ついでに教えてやるがのぅ、坂本竜馬の土佐脱藩について言えば、これは田中光顕の指示で坂本を江戸に行かせたのであり山之内容堂も了承済みのことなんじゃよ。坂本は田中光顕を交えて勝海舟と面会し、その後の勝と坂本の交友関係に田中光顕が持っていったのじゃよ。つまり田中光顕が2人の仲を取り持ったっちゅうわけじゃな。もっとも坂本は江戸に行ってからは芸者置屋に入り浸りだったのじゃが・・・・・。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

そんなのどの歴史本にも書いてないぜ、そもそも田中光顕なんて歴史の肝心要の部分にはついぞ登場しないもんね。

吐魔素屋;

だから事前に言ったじゃろうが、自らの足跡を歴史から消しとるんじゃよ。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

ふ~ん、この田中光顕って、なんだかトンデモナイ人物みたいだな。

吐魔素屋;

そのとうりじゃよ、(ジーッと聞き入る聴衆を前にして)オ~イ、皆の衆よ、この人物のおかげで幕末から明治・大正・昭和のあの敗戦までの日本の運命が確定したようなもんじゃからな、ヨ~ック、耳の穴をカッポじって聞きませい。ホナ今回はここまでじゃ。次の演目が始まるきにのぅ。ではまたな、サイナラときたもんだ。

百眼(ひゃくまなこ)の秀;

ありゃ~、また行っちまったぜ、しゃ~ね~な、お後は次回のお楽しみと言う事で、では皆の衆、次回もこの場にご参集頂きます様よろしゅうお頼み申しますでござる。
ということで、御集りの皆の衆も次回を楽しみにしながら三々五々家路へとお帰りになりましたとさ、チョン。
それにしても、この田中光顕のことは一般の人にはあまり知られていませんナ。教科書にも歴史書にもほとんど姿を現しませんし、若干ですが人物辞典やウェブサイトでの検索はできますが・・・・。
そんな田中光顕のことを初めて著述した本が★鬼塚英昭著作の「日本の本当の黒幕」 ですネ。
しかしながらこの本、賛否両論の代物でして、人によっては“今までの歴史の見方が変わった”と言う意見等様々ですが、捉え方たによっては壮大な“推理小説”ともとれるし、所謂“都市伝説”ともとれるし、ケッコウ厄介な著作物ではありますナ。何が真実かは今となっては分かりませんが、まッ、真実は一つです。なにはともあれ、現在の我々に出来るのは「すべてを疑え」を肝に銘じて物事を観なくては・・・ですかナ。
(文中敬称略)

★鬼塚 英昭(おにづか ひであき、1938年1月6日 -2016年1月25日)は日本のノンフィクション作家、竹細工職人、郷土史家。絶筆本は「田中角栄こそが対中売国者である」

注 解(これらの注解は主に一般的な定説・通説に基づいています。)

※1.陸援隊(りくえんたい) 江戸時代末期(幕末)の1867年(慶応3年)6月27日、薩土討幕の密約に基づき土佐藩出身の中岡慎太郎によって組織され、活動した武力討幕のための武力集団(浪士隊)である。海援隊に続き、中岡の同志・坂本龍馬との協議により発足する。隊長は中岡で、京都を本拠とする。隊員は尊皇攘夷の思想を持つ脱藩浪士などが集められ、総員は70名以上であった。薩摩藩からは洋式軍学者鈴木武五郎が派遣され、洋式調練を行った。中岡、坂本が京都河原町で暗殺された後は、同志の田中光顕、谷干城らが指導し、官軍挙兵後は高野山で紀州藩兵を牽制する等した。御一新により御親兵に吸収された。尚、陸援隊の内部には新選組など幕府方の密偵が入り込んでいたといわれる。

※2.岩倉具視(いわくらともみ) {文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日}日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階・勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。

※3.徳川家定(とくがわいえさだ) 文政7年(1824年)4月8日、第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけであった。しかし家定も幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌った(脳性麻痺を患っていたとの説もある?)。天保12年(1841年)に大御所・徳川家斉(第11代将軍。家定の祖父)の死後、(第12代将軍・家慶の)世嗣となる。しかし家慶は、家定の継嗣としての器量を心配して、一橋家の徳川慶喜を将軍継嗣にしようと考えたほどである。だが、老中・阿部正弘らが反対したため、結局は家定を将軍継嗣とした。嘉永6年(1853年)、家慶が黒船来航から19日後に病死したことを受け、第13代将軍となった。安政5年7月6日(1858年8月14日)、薨去。享年35。後を養子となった慶福改め家茂が継いだ。家定の死により、家慶の血筋は断絶した。

※4.勝海舟(かつかいしゅう/ かつ やすよし) {文政6年1月30日〈1823年3月12日〉 - 明治32年〈1899年〉1月19日)}、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は勝元良(甚三郎)の娘信。幕末の剣客・男谷信友(精一郎)は血縁上は又従兄で、信友が海舟の伯父に当たる男谷思孝(彦四郎)の婿養子に入ったことから系図上は従兄に当たる。

・上記注解は「wikipedia」 1917/5/20 より部分転載