「目鱗新報」第二報

ピー・ピッ・ピッ・ピッ・ピー・ピッ・ピッ・ピッ 「目鱗新報」トマス記者によります第二報をお届けいたします。これによりますと・・・・・。

前回に引き続き、チョッと昔のニュース映画風のイントロで始めさせていただきました。この始まり方、ケッコウ面白いので定番でず~っと続けますかネ。
今回は「トマス記者」本来の文筆法を駆使しての記事を読みたいと思っていたのですが、案の定、出たがりの「トマスおじさん」です。なんだかんだで、またまた演目の一環として「闇の事件記者トマス」役に変身してのご登場です・・・・・・・。

この田中智学は日本の近現代史では明治・昭和時代前期の仏教家ということになっておるが、実は幕末から裏で暗躍していた。田中光顕とは二人三脚で江戸幕府、水戸藩、長州藩、薩摩藩、越前藩、彦根藩等にも食い込み、ある時は非同和を装い、又ある時は日蓮宗の信徒に成りすまし、思想や宗教を語り、利用し、幕末から明治・大正・昭和前期にかけて日本に大きな影響を与えた人物であるのじゃ。いわば田中光顕の右腕であり、その存在は田中光顕の※1イデオローグとも言える人物であるぞよ。そして、そのルーツは朝鮮半島の被差別民であり、いわば朝鮮同和なのじゃ。モチロン戸籍は改竄されており、実際の年齢は不詳なんじゃよ。そもそも幕末から明治維新にかけては戸籍の改竄が非常におおかったが昭和の敗戦後のドサクサの時期も戸籍の改竄は、やはり同じく非常に多かったのじゃ。

今回のゲスト 田中 智学(たなかちがく)
再登場

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{1861年12月14日(文久元年11月13日) - 1939年11月17日}、第二次世界大戦前の日本の宗教家。本名は巴之助。多田玄龍・凛子の三男として江戸で生まれ、10歳で日蓮宗の宗門に入り智学と称したと伝えられているが・・・。1872年(明治5年)から田中姓を称している。その後、宗学に疑問を持って還俗し、宗門改革を目指して1880年(明治13年)に横浜で蓮華会を設立したと云われているが・・・。4年後の1884年(明治17年)に活動拠点を東京へ移し立正安国会と改称、1914年(大正3年)には諸団体を統合して国柱会を結成した。日蓮主義運動を展開し、日本国体学を創始、推進し、高山樗牛・姉崎正治らの支持を得た。1923年(大正12年)11月3日、日蓮主義と国体主義による社会運動を行うことを目的として立憲養正會を創設し総裁となった。智学は「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に初めて着眼し、「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であり、その後の結果が「八紘一宇」であると、「掩八紘而為宇」から造語した。八紘一宇とは日本建国の主義である「道義的世界統一」を意味する。 大正2年3月11日に機関紙、国柱新聞「神武天皇の建国」にて言及。
八紘一宇という言葉は、戦後、軍国主義のスローガンであったかのように言われているが、造語した智学は戦争を批判し死刑廃止も訴えている。さて、この人物の本当の正体は如何に・・・・。

ところで田中光顕は日本古来の同和じゃが生年月日は改竄されており、その戸籍も怪しいものじゃわい。つまりこの田中智学も生年月日は偽っており、当然年齢も真実ではない。
オット話をこの田中智学一本にもどさんとな、ウン、ほんでじゃな、この田中智学なんじゃが、実は1880年(明治13年)の某月某日に※2日蓮宗の総本山である身延山に自ら勝手に接近してきたのじゃよ。そして蓮華会なるものを勝手に創ったのじゃよ。田中智学は当時横浜に住んでいたのじゃが、この蓮華会とは今なお続く「※3国柱会」の元になる団体だったのじゃ。このときの宗門側と田中智学との会話じゃが、田中智学は「私は日蓮上人を心から尊敬している、とりわけ<※4立正安国論>は素晴らしい」と言ったのじゃよ。それで宗門側としては「通常の入信なら許可いたします」と言ったのじゃ。すると田中智学は「自ら組織を創って世の中に拡めたい」とノタマッタのじゃ。だが日蓮宗の修行も何もせずに拡めるなどと言っても、どこの宗派も許可などするわけがないのであって、当然宗門側は断ったのじゃが、田中智学は一応信者としての手続きだけは行ってから帰ったんじゃ。その後、田中智学は宗門側の許可を得ることなく勝手に蓮華会を創り、さらにその後、1885年に東京に出てきて{立正安国会}を設立したが、1914年にこれを「国柱会」に改名したのであ~る。
当然のことながら宗門側は今に至るも田中智学が日蓮宗の信徒とは認めておらず、信徒であったことも認めてはおらんぞなもし。ましてや、田中智学が自ら吹聴していた“日蓮宗の高弟”であったなどということはあり得ないのであって、げんに宗門側は「田中智学が日蓮宗の高弟であるという歴史的認識があるが、これは日蓮宗としては認めない」という発表を正式にしておるのじゃよ。そうそう、ついでに言えば、この田中智学は通説では歴史上“※5水戸学の権威”ということにもなっておるみたいじゃが、これは田中光顕と講談社の創業者である※6野間清二とが組んでその様な風評を広めたのであるぞよ。従来語られてきた歴史がいかに当てにならんかわかるというものじゃわい。この野間と田中光顕は、非常に昵懇で野間はいわば田中光顕ファミリーの一員でもあるのじゃが・・・・・。
田中光顕の死語にその財産の大分を引き継いで現在の野間コンツェルンに至っておるんよ。この野間も同和じゃが、野間清二はマア準コミンテルンで田中光顕の意向で、あの割腹自殺した※7阿南陸軍大将のスポンサーでもあったんよ。モチロン共産主義者であるわいな。ちゅうことは、阿南も当然共産主義者じゃわい。しかい何じゃな、半藤一利も罪が深いのぅ。『日本の一番長い日』は映画化までされておるが、あれじゃあ、阿南も“悲劇の海軍大将” 山本五十六の向こうを張る“悲劇の陸軍大将”ということになるのかいな(失笑)。そういえば、講談社は戦後の※8財閥解体を免れておるが、これは裏での松本治一郎の画策であるぞよ。ウン、松本治一郎~GHQのケーディス・ラインじゃよ。
あの財閥解体でGHQに目の敵にされて一番酷い目にあったのが三井財閥じゃが、モチロンこれも松本治一郎の仕業というわけじゃな。オットット、また悪い癖で、話が長くなってしまい、挙句に随分と話が逸れてしまったわい。話を元に戻さんとな、え~っと確か田中智学の話だったよな、ウン、ようするにじゃな、この田中智学が日蓮宗 身延山に接近したのは日蓮宗と立正安国論をトコトン利用するためだったのであ~る。それにしても、やっぱ田中光顕と松本治一郎が登場することになったが、な~に上原勇作も田中智学とは昵懇じゃよ、ウッシッシッシ、では今回は切りがなくなるのでこれでお終いにしようかいな、皆の衆よ、また次回この舞台でお会いしようぞ。

ピー・ピッ・ピッ・ピッ・ピー・ピッ・ピッ・ピッ!「目鱗新報」トマス記者によります第二報をお届けいたしました。では、引き続き「シーズ劇場」をお楽しみください・・・・・。 (このクロージングアナウンスもイントロと同様に定番にしますかネ・・・・・・・?)

ふ~む、田中光顕と田中智学、 “恐るべしダブル田中”ですネ~。
時代は違いますが、ここに田中角栄なんていうのが絡んできたら “恐るべしトリプル田中”なんていうのもありえますかネ。でも以外と関係があったりして、何か面白いですナ~。そういえば、田中光顕と松本冶一郎は親分・子分の関係でして、その松本と田中角栄も親分・子分の関係でして・・・、やはり繋がっていましたナ。
因みに「日本の一番長い日」ですが、著者の半藤一利は、1965年発表当時は文藝春秋新社の社員でして、営業上の理由(社員は著作者として名前表示出来ない?)から「大宅壮一 編」として出版されてましたネ。序文のみを大宅が書いていました。また、講談社インターナショナルから英訳版も出版されてまして、この時のタイトルはノルマンディー上陸作戦を描いた映画『史上最大の作戦』の原題“The Longest Day” から採られていますネ(何やら拙速ですナ)。
尚、元々の半藤一利を著者とする「決定版」と付した改訂版は、戦後50年にあたる1995年(平成7年)6月に文藝春秋社から刊行されてます。

注 解(これらの注解は主に一般的な定説・通説に基づいています。)

※1.イデオローグ
ナポレオンが 18世紀末の急進的フランス唯物論者たちを,観念をもてあそび民衆に迎合する者といった意味を込めて呼んだ蔑称。のちにこの言葉は,マルクスや,F.エンゲルスにより,特に『ドイツ・イデオロギー』においてヘーゲル左派に向けられ,意識の幻影と闘う観念論者をさすものとなった。現在では,広く一般化して特定の党派,階級的立場を代弁し,擁護する者を意味するようになった。(出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

※2.日蓮宗の総本山である身延山
山号が身延山である久遠寺(くおんじ)は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の総本山(祖山)。

※3.国柱会
国柱会(こくちゅうかい 國柱會)は、元日蓮宗僧侶・田中智学によって創設された法華宗系在家仏教団体。純正日蓮主義を奉じる右派として知られる。

※4.立正安国論
文応1 (1260) 年成立。日蓮の代表的著作である五大部の一つで、後に水戸学の礎となった理論である。所謂「国本思想」の行使である。本来は日本の「保守思想」の原典であるが、改ざんされ、歪曲されてきている。元々は純粋な大和民族の為の理論であり、過激な「右翼思想」ではない。(この注解は従来の歪曲された定説・通説ではなく、独自の見解を記しています。)

※5.水戸学
水戸学(みとがく)は、江戸時代に日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)で形成された政治思想の学問である。儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させたもの。全国の藩校で水戸学(水戸史学、水府学、天保学、正学、天朝正学ともいわれる)は教えられその「愛民」、「敬天愛人」などの思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。 戦後は水戸学に基づく尊皇攘夷思想等が一定の批判を受けることがあるが、本来水戸学は非常に幅の広い学問体系を持っている。徳川光圀の『大日本史』編纂のために集まった学者を中心としており、朱子学者が多かったが、あらゆる学派を網羅していた。以上は定説・通説であるが、実に不可解な事がある。それは初代文部大臣の森有礼は暗殺されている。一体何故でしょうか・・・・? (この注解は従来の歪曲された定説・通説ではなく、独自の見解を加筆しています。)

※6.野間清二(のませいじ)
(1878年12月17日 - 1938年10月16日)は、講談社創業者であり、元報知新聞社社長。「雑誌王」とよばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した。

※7.阿南陸軍大将
阿南 惟幾(あなみ これちか)は、1887年(明治20年)2月21日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級。1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任した。太平洋戦争(大東亜戦争)末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府において戦争継続を主張したが、聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、8月15日に自害。日本の内閣制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初である。その真相は、終戦時の宮城クーデターに失敗した責任をとらされたものであり、切腹直後にそれを見届けた日本軍人(コミュンテルン)によってスターリンに報告されている・・・。(この注解は従来の歪曲された定説・通説ではなく、独自の見解を加筆しています。)

※8.財閥解体
日本における財閥解体(ざいばつかいたい)とは、1945年より1952年にかけて行われた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策の1つ。「侵略戦争遂行の経済的基盤」になった財閥の解体による、第二次世界大戦以前の日本の経済体制の壊滅が目的とされる経済民主化政策である。最も標的にされたのは三井財閥であり、ほぼ無傷であったのは野間財閥である。これは松本冶一郎とケイディスの裏の画策であった。(この注解は従来の歪曲された定説・通説ではなく、独自の見解を加筆しています。)

・上記注解2、3、5、6、7、8は「wikipedia」 1917/5/20 より部分転載